江戸四大飢饉の中でも最大規模の被害が出たといわれている「天明の大飢饉」。

 

この飢饉では人の肉を食べたという話も残っていますが、どういったエピソードだったのでしょうか。

 

今回はそんな『天明の大飢饉(てんめいのききん)』の原因や被害などについてわかりやすく解説していきます。

 

天明の大飢饉とは?

(民衆の飢餓を救済した善光寺貯蔵跡に作られた放生池 出典:Wikipedia

 

 

天明の大飢饉とは、江戸時代中期にあたる1782年から1788年の6年間にも及んだ飢饉のことです。

 

1770年代から東北地方の悪天候や冷害がつづいたことにより、農作物の収穫量は減少し、厳しい状況となっていました

 

そして、1782年から1783年にかけては暖冬に見舞われ、田畑が乾きどんどんと耕作地が痩せしまい、大規模な食糧難が発生。餓死者を多数出す結果となりました。

 

天明の大飢饉の原因「火山の噴火」

 

これらの恵まれない天候に追い打ちをかけるように、1783年には岩木山と浅間山が立て続けに噴火し、全国各地に火山灰を降らせました

  • 岩木山・・・青森県に位置する火山で、県内最高峰。津軽富士とも呼ばれ、古くから信仰の対象とされてきた。
  • 浅間山・・・長野県と群馬県にまたがる火山。「あさま」は火山を意味する古語だと考えられており、岩木山同様、古くから信仰の対象であった。

 

浅間山の噴火は2000名もの死者を出す大災害で、火山灰が3センチも積もったともいわれています。

火山灰が大量に降って、植物に積もってしまうと光合成を阻害され、成長することができなくなってしまいます。さらに火山灰の酸性が強い場合は、植物自体を枯らす原因にもなります。

 

また、火山灰が大気中に舞ったことで日光が遮断されて日射量が減少し、さらなる冷害を引き起こしたと考えられています。

 

余談にはなりますが、火山灰は人体にも影響を及ぼし。火山灰を体内に入れてしまうと気管や肺が傷つき、呼吸器系の病気にかかりやすくなります。

 

このことから当時、悪天候などによる農作物の収穫の減少だけでなく、火山灰による被害も深刻であったことが考えられます。

 

天明の大飢饉の影響「被害(死者数)の大きさ」

 

この飢饉の様子をのちの杉田玄白は「後見草」で伝えています。

 

この本の中で、東北地方の餓死者は推定2万人と記されています。

 

しかし、諸藩は自分たちの失政を隠そうとし、少なく記録されたと考えられています。

 

被害が甚大であったと伝えられるのは陸奥の地域で、死者は盛岡藩で7万5千人以上、八戸藩では3万人が餓死したのちに伝染病が蔓延し、さらに数千人が亡くなったといわれています。

 

もっとも悲惨だったのは弘前藩で、死者は10万人以上、逃亡者も含めると藩の半分以上もの人を失いました。

 

これに追い打ちをかけるように疫病も流行し、1780年から1786年の期間で、全国的な死者数は推定96万人ともいわれます。

 

食料がなさ過ぎて人の肉を食べた?

 

人が食べるための食料が足りなかったため、家畜であった牛や馬は野放しにされていました。

 

ちなみにこの時代には、牛や馬を食べる習慣はまだありません

 

しかし、人々が山の山菜やイノシシ、シカなどの動物も食べ尽くしてしまうと、馬や牛も食べるようになったそうです。

 

また、口減らしのために子どもを捨てる者や森で首を吊る者、石を抱いて川に身を投げる者もいました

 

天明の大飢饉では、あまりの食料の足りなさで、いくつか人肉を食べていたというエピソードも伝わっています。

 

そんなエピソードをいくつか紹介します。

 

①家族の人肉を食べた娘

家族が亡くなり隣町に嫁いでいた娘が葬儀のために家に戻ってきました。

 

家族を火葬していたところ、空腹に耐えかねた娘は火葬した家族を食べてしまいます。

 

その後も娘は人の肉を求めて徘徊するようになり、それを恐れた村人によって処刑されました。

 

②人肉に犬の肉を混ぜて売った

男が橋の下に亡くなっていた人の太ももの肉を切り取っていました。

 

そこの通りかかった女が不思議に思い、何をしているのかと声をかけたところ、人肉に犬の肉や葉を混ぜて団子にして売ると答えました。

 

③人肉のお返し

家族が亡くなった家に女が訪ねてきて、「片腕でも片股でもいいから分けて欲しい。うちの爺さんがなくなったらお返しにくる」とお願いしにきました。

 

このようなことが本当にあったとは信じがたいですが、人々が追い詰められた状況であったことは間違いでしょう。

 

天明の大飢饉は天災ではなく人災だった?

 

天明の大飢饉の以前は新田開発などを推し進め、米の収穫を増やそうと様々な取り組みが行われていました。

 

 

行きすぎた改革を推し進めた結果、人員不足が深刻となっていきます。

 

①行き過ぎた開発

当時、治水作業を行なっていました。

※治水:川などを水害が起こらないように整備したり、物を輸送できるように整備したりすること

 

しかし、耕作地に近すぎたため洪水を頻発させる事態となり、農作物の収穫量は減り、食糧不足が深刻となる一因となりました。

 

②重商主義政策

この時代には田沼意次による重商主義政策が行われ、年貢の量が増えるなど負担が大きくなっていました。

 

重商主義とは、商業や貿易を発達させ国富を増やすために行う経済的な政策や思想のことです。

 

このような動きの中で、備蓄米が江戸の廻米にされるなどの政策が行われた結果、米価が高騰し、米の不作に見舞われる中で飢饉が全国的に広がっていくこととなりました。

 

 

③コメの生産技術

コメの生産量をあげようとするばかりに適切な製法が行われていなかったこともあります。

 

本来コメは温暖な気候の中で育てる必要がありますが、寒冷な土地でも稲作を始めようとしたため、うまく育たないという事態が起こりました。

 

現在に比べると技術的にも未熟な部分が多く、安定した稲作が行えていなかったのです。

 

さらに、米ばかりを作って他の作物を育てることに力を入れなかったため、米に被害が出てしまえば他に収穫できるものはほとんど何もありませんでした。

 

コメの収穫を増やすどころか、皮肉なことにも飢饉を招く事態へと発展していってしまったのです。

 

まとめ

 天明の大飢饉は江戸中期に起こった1782年から1788年の6年間にも及んだ飢饉で、江戸四大飢饉の中でも最大の被害であった。

 天明の大飢饉は悪天候などの天災に加えて、1783年には岩木山と浅間山が立て続けに噴火し、全国各地に火山灰を降らせ、日射量を減少させるなどコメの育成を阻害した。

 杉田玄白は「後見草」で天明の大飢饉の死者を2万人ほどだと伝えているが、諸藩が失政を隠すため、少ない人数を報告させたと考えられている。

 天明の大飢饉の被害が大きかったと伝えられるのは陸奥の地域で、その中でも甚大であったのは弘前藩で、10万人以上の死者に加えて、逃亡者数も含めると藩の半数以上の人数を失った。

 天明の大飢饉ののちには疫病も流行し、1780年から1786年の期間で、全国的な死者数は推定96万人ともいわれている。

 天明の大飢饉では食糧の足りなさが原因で、口減らしのために子どもを捨てる者や、自殺する者もいた。

 天明の大飢饉では、人肉を食べたというエピソードがいくつも伝わっている。

 天明の大飢饉はその背景に、幕府が財政を豊かにするためにコメの生産を増やそうとした政策が失敗したこともあり、人災であったともいうことができる。

 

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