徳川将軍8代目、徳川吉宗の時代に町人たちに道徳意識を広めることが急がれました。

 

その任務に当たったのが思想家「石田梅岩」です。

 

今回は、そんな彼が説いた石門心学(せきもんしんがく)についてわかりやすく解説していきます。

 

石門心学とは

(石門心学を説いた石田梅岩 画像引用元

 

 

石門心学とは、江戸時代中期の思想家石田梅岩(ばいがん)を開祖とし、仏教儒教神道の三つの宗教を基盤とした思想のことです。

 

倫理学の一つで、平民のために平易で実践的な道徳の教えを説いたもので、その影響は明治時代、現代にまで続いていると言えます。

 

心学とも呼ばれ、身近な例を取り上げながら忠孝信義を説きました。そうした説話を道話と呼びます。

 

最初は、町人を中心とする都市部に広がりましたが、その後農村部や武士の間にも広まり、全国的な普及を見ます。

 

石門心学が生まれた背景

 

 

石門心学が普及したきっかけは、町人たちへ道徳を説くという目的がありました。その背景には何があったのでしょうか。

 

①町人の台頭

江戸時代中期、徳川吉宗の時代は元禄の経済発達を受けて、農村にも貨幣経済が浸透して、商品作物の栽培が進みます。

 

そのため、農商工の分業が進み、新しい町人(商人)層を生み出すことになります。

 

町人は商工業を営む階層で、各大名たちは城下町に町人たちを住まわせるようになりました。こうして農業と商工業が分離されて、都市が形成されるのです。町人層は高い技術力と豊かな資金力で独特の町人文化を生み出すまでになります。

 

武士をもしのぐほどの経済力をつける町人たちもいました。富を誇る町人階層が商人としての道徳を身に付けることが急がれたのです。

 

②創始者、石田梅岩

石門心学の創始者、石田梅岩は丹波国(現在の京都府亀岡市)に百姓の次男として生まれました。

 

11歳で、呉服屋に奉公にでますが、一旦実家に帰ります。その後、23歳の時に再び奉公に出て働きます。

 

42歳で、仏教者の小栗了雲に出会い思想家の道に進みます。45歳には、無料の講座を自宅で開き、「石門心学」を説きました。

 

自分が商人として働いていた経験から、商人としての心得や商業の社会的役割なども説いて、商人の間にはすぐに広まりました。最盛時には、門下生が400人にもなりました。

 

石門心学の教え

(梅岩塾の様子 出典:Wikipedia

 

 

自ら商人でもあった石田梅岩の教えとは、どのようなものだったのでしょうか。

 

①心学の意味

心学とは、もともと中国、南宋陸象山王陽明が説いた学のことを言います。書や字句の解釈を主とする朱子学とは違い、主に心のあり方に関心を向けていました。

 

朱子は心を性と情に2分して、性に理があるとしましたが、陸王は心全体の作用を重要視して、心そのものを理としました。のちに、朱子学も心学と呼ばれるようになります。

 

日本においては、石田梅岩が説いた学問を心学と呼びます。それには、石田梅岩の弟子による道話を、吉宗の孫で老中松平定信が「心の学び」と言ったために、「心学」となったという話があります。

 

②石門心学の思想

石田梅岩が説いた石門心学は、自分も商人として働いた梅岩の経験が反映していると言えます。

 

神道と儒教と仏教を独学し、宇宙の根源である「道理」は皆に等しく与えられており、それを「性」と呼び、その「性」は心の根本であると説きました。

 

その素直な心に従って行動するのが人の道であり、商人の道でもあるとしました。

 

素直な心とは、私心のない無心で正直な心でありその心に沿って商いを行い、それで富が蓄えられても恥じることではないという説から、当時富裕層となっていた町人たちには大いに歓迎されたのです。

 

③「勤勉」「倹約」「正直」

石門心学の基盤は、「勤勉」「倹約」「正直」と言えます。

石門心学の基盤

「勤勉(きんべん)」

人間は労働により食を得るように生まれており、その心をもって苦労して努めれば「心は安楽になる」と説いています。

「倹約(けんやく)」

お金を貯めるという意味ではなく、物の効用を尽くすという意味です。梅岩は「世界に三つ要る物を二つにて済むようにするを倹約と言う」と言っており、余分なものを作らず、ものを使い尽くすと説いています。

「正直(しょうじき)」

「先も立ち、我も立つ」という言葉を言っているように、まず相手のことを思い、そして自分のことを思うということです。自分のことばかり思っていては、物事はうまく成り立ちません。

 

石門心学の影響

 

 

当初、石門心学は町人層への道徳思想として広まりましたが、それは一般に人としての思想としても広まります。

 

また、現代では企業の在り方としても再注目されているのです。

 

①心学道話としてベストセラーに

石田梅岩が亡くなった後、その跡を継いだ弟子としては手島堵庵(てじまとあん)がいます。

 

堵庵は、石門心学を説くための場所「心学講舎」を京都に開き、石門心学の普及に尽くします。心学講舎は、最盛期で全国に180ヶ所もあったと言います。

 

そこでは、一般民衆に向けて身近な例を取り上げ修身道徳を説く「道話」が話されました。

 

ここで話された「道話」が、後に聞き書きとして本になって出版され、ベストセラーにもなるのです。そして、「心学道話」という言葉が定着します。

 

②明治時代の石門心学

堵庵の後に有名な心学者としては、柴田鳩翁(きゅうおう)がいます。

 

43歳で心学の講師となって、巧みな話術でおもしろい道話を聞かせて人々を魅了しました。45歳で失明しましたが、その後も道話を聞かせるために全国を遊説しました。

 

この鳩翁の道話を筆記して本にしたものが「鳩翁道話」です。これは、明治時代にベストセラーとなり、大阪では商店の丁稚に読ませていました。

 

「鳩翁道話」は、仕事に忙しい商人や丁稚などの奉公人たちに平易な語り口で身近な物語の中にユーモアや皮肉などを交えて道徳を説いたことで、庶民の間に広まったのです。

 

③現代における石門心学

 

 

心学講舎の流れを汲む明誠舎が明治時代以降も大阪市で活動を続けています。また、京都では修正舎という講舎も活動をしています。

 

このように、現代にも心学を学ぶ場が江戸時代から続いています。そして、心学が現代に与えた影響としては、企業の社会的責任という道徳的な教えが大きいと言えます。

 

梅岩は「まことの商人は先も立ち、我も立つことを思うなり」という言葉を残しています。

 

まずは相手の利益を考え、そして自分の利益を考えるという、商人と企業のあるべき姿を教えていたと見直されています。

 

また、「倹約」の教えは、現代の省エネや省資源など環境問題に通じるものがあります。

 

まとめ

・石門心学とは、江戸時代中期に思想家石田梅岩により説かれた道徳の教えである。

・江戸時代中期は、町人(商人)階層が社会的にも経済的にも力をつけ、富裕層でもあった。

・そのため、早急に町人たちが道徳を身に付ける必要があった。

・石門心学は、「勤勉」「倹約」「正直」を教えの基盤として、商いで富を貯めることを肯定していたため、商人の間にすぐに普及した。

・心学道話とは、庶民に身近な例を取ってユーモアを交えてわかりやすく道徳を説いた話である。

・現代まで、石門心学を学んだり、道話を語る場である講舎で活動が続いている。




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