鎌倉幕府と室町幕府と聞いて、みなさんはどんなイメージを持たれるでしょうか?
「そもそも幕府って何?」という感想を持たれる方も少なくないと思います。
幕府とは、元々将軍の陣屋という意味で、そこから、武士による政権を意味するようになりました。
その上で、鎌倉幕府と室町幕府は同じ幕府という名称ですが、それぞれ具体的にどういった特徴があるか、また、違いや共通点は何か、思いつかない方もいるのではないでしょうか?
そこで今回は、鎌倉幕府と室町幕府の違いと共通点、特徴についてわかりやすく解説していきたいと思います。
目次
鎌倉幕府と室町幕府の違い
鎌倉幕府と室町幕府の主な違いは以下のとおりとなります。
①全国の統治体制の違い
まず、鎌倉幕府の支配が及ぶ範囲は、基本的には全国各地であったのに対し、室町幕府では、幕府の直接支配が及ぶ範囲は、実質的には京都を中心とする西日本地域でした。
室町幕府では、東国の統治は、鎌倉府が設けられ、その統治を担当しました。
鎌倉府には、足利尊氏の子の家系が、鎌倉公方として赴任しました。
また、東北には奥州探題・羽州探題、九州には九州探題が設置され、足利家の同族がその統治を担当しました。
このように、室町幕府は実態的には、全国を異なる統治機構で分割統治していたと見ることができます。
特に、鎌倉公方の「公方」とは将軍を意味する言葉で、鎌倉府は室町幕府に対して度々戦を起こすなど、両者の関係は微妙なものでした。
②将軍・武士の関係の違い
次に、鎌倉幕府では将軍と御家人の間で、御恩と奉公の関係で主従関係が構築されていましたが、室町幕府では、幕府自体が有力大名の連合政権となっているという違いがあります。
足利将軍家は、大名を束ねる盟主として機能しましたが、個々の大名の勢力が強大で、義満などの時代を除き、将軍家が幕府の運営を主導できず、政権が安定していたものとは言えませんでした。
これは、鎌倉幕府において、将軍から見れば一御家人に過ぎない北条氏が、執権を世襲し、飾り物の将軍に代わって、強大な権勢の下に幕府を主導したのと対照的とも言えます。
鎌倉幕府と室町幕府の共通点
共通点としては、両者とも朝廷の権威を前提とした上で、同様の統治機構を構えた点があります。
正確には、室町幕府が鎌倉幕府の統治機構を参考にして、その仕組みを構築したということです。
鎌倉幕府で設けられた、政所、侍所などが室町幕府でも設けられています。
また、鎌倉幕府では将軍を補佐する最高権力者として執権がありましたが、室町幕府においても、将軍を補佐する役職として、管領が設置されています。
鎌倉幕府について詳しく解説!
(源頼朝 出典:Wikipedia)
①鎌倉幕府の成立
鎌倉幕府とは、源平合戦の末の1192年、源氏の棟梁である源頼朝が征夷大将軍に任命され、鎌倉に開いた我が国で初めての本格的な武家政権のことです。
1183年(寿永2年)、朝廷は頼朝に対し、東国における荘園・公領からの官物・年貢納入を保証するとともに、頼朝による東国支配を公認する宣旨を発しています(寿永二年十月宣旨)。
また、1185年、朝廷は、頼朝は諸国に守護・地頭を設置・任免することも認めています(文治の勅許)。
同年、頼朝は諸国に守護・地頭を設置し、全国的な支配を拡大しています。
近年の学説では、これをもって鎌倉幕府の成立とされるものが有力となっています。
ちなみに、地頭の任務は、年貢の徴収・納入、土地の管理、治安維持となり、守護は、国ごとにおかれ、軍事・警察権を持ちます。
鎌倉幕府が最初の本格的な武家政権と言われるのは、これまでの朝廷とは異なる、武家独自の統治機構や政権の枠組みを成立させたためです。
平清盛による平氏政権が、従来の朝廷の貴族制度内で、平氏一門で朝廷の高い官職の多くを占めて権勢を誇ったのと比べると対照的です。
②鎌倉幕府の統治機構、将軍と御家人の関係
幕府では、政所(はじめ公文所)が政務・財政を担い、侍所が軍事を、問注所が訴訟を、それぞれ担当しました。
鎌倉幕府における将軍と御家人の主従関係は、御恩と奉公という形で説明されます。
将軍は、御家人を地頭に任命することで、本領を安堵し、戦で武功を挙げた者には新たに所領を与えました。
これに対し御家人は、平時は軍役を果たすとともに、有事の際は軍勢を率いて将軍に加勢するといった形で奉公します。
③北条氏による執権政治
頼朝没後、その妻・政子の実家の北条氏が権勢を強め、政子の父・北条時政は、初代執権に就任し、将軍に次ぐ最高権力者として幕府を主導していくこととなります。
(北条時政 出典:Wikipedia)
時政の子・二代執権の義時は、政所と侍所の長官(別当という)を併任し、以降、執権は、両別当を兼ねる役職となりました。
以降、執権の下で、有力御家人による合議(評定)で幕政が運営されていきました。
④幕府の滅亡
鎌倉幕府は、北条家嫡流の得宗家を中心に絶大な権勢を誇りましたが、蒙古襲来後の恩賞が不十分であったことや貨幣経済の浸透による困窮化などによって、次第に幕府への御家人の不満が高まっていきました。
その後、後醍醐天皇が討幕の動きを見せると足利氏や新田氏など反北条の御家人がこれに呼応し、鎌倉幕府は滅亡へと向かっています。
室町幕府について詳しく解説!
(足利尊氏 出典:Wikipedia)
①室町幕府の成立
鎌倉幕府打倒を目指す御家人の筆頭格が、室町幕府を開いた、足利尊氏です。
足利氏は、源頼朝と同じく清和源氏の名門です。
1333年の鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇による、貴族中心の親政(建武の新政)が実施されました。
しかし、この新政には不満を持つ御家人が多く、尊氏はこれらの御家人を束ね、後醍醐天皇と対峙していきます。
後醍醐天皇側との戦乱が繰り広げられる中、後醍醐天皇は奈良の吉野に落ち延び、京の朝廷では、新たな天皇が即位しました。
後醍醐天皇側は南朝、京の朝廷は北朝と呼ばれ、日本史上初めて天皇が同時に二人存在する異常事態が発生します。
こうした中、尊氏は、北朝の光明天皇より征夷大将軍の位を授かり、1336年、室町幕府を開きました。
室町幕府という名称は、三代将軍義満が京の室町に構えた邸宅(花の御所)に由来します。
(足利義満 出典:Wikipedia)
②室町幕府の統治体制
室町幕府は当初、尊氏が政務一般を担当し、弟の直義が軍事を担当するというように二頭政治となっていました。
しかし、その後、尊氏の家臣である高師直と直義の間で抗争が勃発し、南北朝の動乱に幕府内部の争い(観応の擾乱)も加わり、事態は混乱を深めていくことになりました。
また、室町幕府は有力守護大名による連合政権の様相で、足利将軍家の軍事・財政基盤は脆弱でした。
こうした中、三代将軍義満は有力守護大名の勢力を減じ、将軍家の権勢を高めるとともに、1392年には南北朝の統一を果たしました。
③幕府の衰退
義満の後、有力守護大名の権勢は次第に高まる一方、将軍家の権威は衰えていきます。
1467年には応仁の乱が勃発。
将軍家の跡目争いに有力守護大名の勢力抗争が加わり、戦乱は長期化・京は荒廃し、将軍家の権威は地に落ちました。
そして、戦国の時代に突入していきます。
まとめ
✔ 鎌倉幕府と室町幕府の主な違いは、「全国の統治体制」と「将軍・武士の関係」。
✔ 鎌倉幕府と室町幕府の共通点は、統治機構が似ていること。
✔ 鎌倉幕府は、1192年に源頼朝によって開かれた、初の本格的な武家政権で、執権・北条氏が実質的に幕府の運営を主導した。
✔ 室町幕府は、1336年に足利尊氏によって開かれた、実質的には有力守護大名の連立政権だった。
✔ 室町幕府では、三代将軍義満が有力大名の勢力を削ぎ、将軍の権威を高めたが、その後、再び有力大名の勢力が高まり、将軍家の権威は衰えていった。