鎌倉幕府と言えば、少し前の教科書では1192年という年号のゴロ合わせから「いい国つくろう鎌倉幕府」という言葉が耳慣れている人も多いでしょう。

 

現在の教科書では「成立」という意味で様々な考え方があり、「1192年に鎌倉幕府が成立した」とは教えていないようです。

 

いずれにしても、鎌倉幕府の存在は知っていても、なぜ幕府を開く場所が京都ではなく「鎌倉」だったのかを知る人はあまりいないかもしれませんね。

 

そこで今回は、『源頼朝が幕府を開く場所として鎌倉を選んだ理由』について詳しく解説していきます。

 

鎌倉幕府の成り立ち~関東の武士団(豪族)に支持された源頼朝~

(源頼朝”みなもとのよりとも”)

 

 

鎌倉幕府になる前、それまでの幕府(政権)は長く京都にありました。それが、源頼朝によって鎌倉に幕府が置かれることになったのです。

 

源頼朝が鎌倉に幕府を開いたその理由には関東の武士団の勢力が関係してきます。

 

そもそも武士の成り立ちは、関東の農民たちが自分たちの土地や財産を守るために武装したということが始まりとされています。

 

当時、関東では朝廷に任命された国司や目代が土地を奪ったり、過剰に税を徴収するなどして勢力を振るっていました。

 

しかし、地域の住民や関東の武士団たちは苦しめられていました。

 

当時の武士団は歴史上は豪族であり、その地域の実力者なのですが、国司に歯向かうような立場にはなかったのです。

 

そこで、特に武士の中でも実力者である平家や源家と親戚関係を持つようになります。

 

特に源頼朝は富士川の戦いによって平家に勝利し勢い付いていたので、京都に上洛して朝廷を治めようという動きを見せていました。

 

しかし、関東の武士団の想いは朝廷のある京都に入ることではありませんでした。

 

武士団の願いは「朝廷に干渉されたくない」という想いだったのです。

 

源頼朝はこの想いを汲み、実行に移すことで武士団の信頼を益々得ることになったのです。

 

「鎌倉」が源頼朝に選ばれた理由

 

 

では、江戸幕府滅亡まで約680年間も続いた武家政権の幕を開けた源頼朝が、「鎌倉」という地を幕府を開く場所として選んだ理由を具体的に見ていきましょう。

 

①敵が攻めにくい地形

鎌倉は北・東・西の三方を山・丘に囲まれており、南には相模湾が広がっている地形です。

 

このような地形は守りやすく攻めにくい地形であると言えます。

 

源頼朝が鎌倉を根拠地とした当時は平氏との戦いが多い時期でしたので、平氏に攻め込まれた場合を想定して自身の本拠地の防御を整える必要性がありました。

 

その点、鎌倉の地形は自然の要塞となっていたので源頼朝にとってとても都合が良かったのです。鎌倉の地は歴史の教科書では「天然の要害地」と表現されることがあります。

 

また、この土地は、元々源頼朝の先祖の土地であったことから縁のある土地でした。

 

地形から考えると源頼朝にとって好都合であった点は具体的には以下の通りになります。

有利な点

 高い場所から敵を見渡すことができる。

 複雑な地形を利用して待ち伏せをして弓矢を放ったり、攻撃がしやすい。

 険しい山や丘陵があり、敵の軍隊の体力を減らす事ができた。

 敵方にとって体力の回復に使う食料の補充をするには困難な地であった。

 敵にとって不利になるような道を作りやすい。

 山が急なので斜面を馬が通りにくい。

 鎌倉の中心を流れる滑川を利用することで、生活用水や農業用水、木材を運搬する物資輸送に便利であった。

 

②東海道に近いことは交流にとって主要な場所

また、鎌倉という地は東海道に近く交通、商業、軍事などの面から重要な交流地点でもありました。

 

当時、山を最小限だけ切り取って鎌倉と各地を結ぶ道を作ったとされていますが、江戸時代には東海道は天下の街道として賑わいをみせました。

 

このことは、現在は国道1号線が東海道に沿って開通している様子からも想像できるでしょう。

 

③関東の武士の想いを汲んだ源頼朝

関東の武士の願いは「朝廷の干渉を受けたくない」という想い。

 

その想いを汲んで、源頼朝は朝廷のある都「京都」ではなく、離れた土地、関東で幕府を開きました。

 

武士の想いとは、具体的には以下のような内容だと考えられます。

武士の想い

 自分の領地や新たに得た領地を認めてもらい、守り続けることができる

 朝廷の役人に過剰な徴税をされないこと

 貴族の護衛など無益な徴兵をされないこと

 働いた分の正当な見返りをもらうことができる

 

頼朝は、この武士の望みを、次々と実行していきました。

 

④京都から離れることが目的だった

源頼朝が鎌倉に幕府をひらいた理由として、京都から離れることが目的であったとする説もあります。

 

その理由は主に以下の3つが考えられます。

京都から離れたい理由

 京都には朝廷があるので源氏の敵が近くにいる可能性が高かった

 京都では寺院が政治に関わっていたため、源頼朝の政治にも口出ししかねなかった

 平氏がそうであったように、武士が貴族化して衰退してしまうことを恐れた

 

鎌倉幕府と切り通し

 

 

最後に、鎌倉幕府が作った「切り通し」について説明します。

 

鎌倉幕府は、鎌倉を取り巻く山々に切り通しを作ることで鎌倉につながる街道と鎌倉をつなぎました。

 

本来、切り通しは道幅が広いものもありますが鎌倉の切り通しは、一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。

 

切り通しについて理解を深めていきましょう。

 

①切り通しとは

(鎌倉市の釈迦堂口切通し 出典:Wikipedia

 

 

鎌倉幕府は軍事道路や、敵の侵入を防ぐための切り通しと呼ばれる道を作りました。

 

本来、切り通しは道幅が広いものもありますが、鎌倉の切り通しは一様に道幅が狭く人が一人分くらいしかと通れないように作られています。

 

②鎌倉の七つの切り通し(鎌倉七切通)の名前

鎌倉七切通

 仮粧坂切通「けわいざかきりどおし」

 極楽寺坂切通「ごくらくじざかきりどおし」

 大仏切通「だいぶつきりどおし」

 亀ヶ谷坂切通「かめがやつざかきりどおし」

 巨福呂坂切通「こぶくろざかきりどおし」

 朝夷奈切通「あさひなきりどおし」

 名越切通「なごえきりどおし」

 

③切り通しの特徴と役割

切り通しの特徴は、「両側が切り立った崖であること」「狭いこと(場所によっては人一人分の幅しかないものがある)」があります。

 

また、役割としては・・・

 敵が大軍で攻めてきても道幅が狭く、両側が崖であることから、正面の一人しか攻撃できない。

 鎌倉側の防御としては道幅の狭さを利用して木戸や柵で容易に道を塞ぐことができる。

 鎌倉側の攻撃としては切り通しの上から、落石、矢で攻撃がしやすい。

があります。

 

まとめ

✔ 鎌倉に幕府を置いた理由は、北・東・西の三方を山・丘に囲まれており、南には相模湾が広がっている地形で敵が攻めにくいため。

✔ 鎌倉が源氏のゆかりの地であったため。

✔ 経済的な意味では東海道に近く交通や交流、流通において好都合であったため。

✔ 歴史的な側面からは「朝廷の干渉を受けない自分たちの国をつくりたい」と願っていた関東の武士の想いを汲んでいたから。

✔ 権威の象徴である朝廷と、権力を握っている自分たちがいる場所を分立させたかったため。

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