平安末期に行われた源平の争乱の中でも、面白いエピソードが記憶に残る戦い「富士川の戦い」。

 

実はこの戦いは争乱の大きな分岐点となった重要な出来事でもあります。

 

今回は、この『富士川の戦い』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

富士川の戦いとは?

(富士川 出典:Wikipedia

 

 

富士川の戦いとは、1180年から始まった源平の争乱の一つの戦いであり、118010に現在の静岡県富士市にある富士川の岸で行われた戦いのことです。

 

飛び立った水鳥の羽音を源氏軍の大軍の襲来と勘違いした平氏軍が総崩れになり、源氏方の勝利に終わったことで大変有名です。

 

富士川の戦いが起こった背景

武家の台頭

折しも「平成」から「令和」への素晴らしい譲位が行われた時期ではありますが、平安末期は、天皇の位を退いた上皇がその住まいにて「院政」という政治を行い、天皇と上皇さらには貴族などが政治の実権を握るための対立が非常に激化している時代でした。

 

 

そのような中、力をつけてきた武士がそれぞれに味方し、大きな内乱が起きたのです。

 

これが保元の乱であり平治の乱です。

 

 

ここで詳細は割愛しますが、これらの内乱を通じて武士が政治の世界に大きな力を持つようになりました。

 

奢る平氏

中でも、後白河上皇の院政を助けて武士として初めて太政大臣となった平清盛は、多くの荘園を支配し、一族の人々をも高い地位に就けていった上に中国との貿易(日宋貿易)などで富を得ていきます。

 

 

さらに娘を天皇の后にすることで政治の実権も握り、日本初の武士の政権を作り上げました。

 

平家一門の『平氏にあらずんば人にあらず』は有名な言葉ですが、いかに平氏が権勢におごり栄華を誇っていたかが分かりますね。

 

実はこの言葉は「人でない」というほどではなく、「出世できない」位の意味合いだったのでは?とも解釈されていますが、いずれにせよ調子にのっている~という意味で非常に周囲の反感をかったことだけは確かです。

 

平氏への不満と源氏の挙兵

朝廷の政治を思い通りに動かそうとした平清盛に対して、貴族や寺社は反発し、さらに貴族風に栄華を高めていく平氏一門へ地方の武士からも不満がおきます。

 

そのような中、清盛が後白河法皇(上皇が出家したので法皇になっていた)と対立し、法皇を幽閉したことから、その息子の以仁王(もちひとおう)令旨(りょうじ)(本来は親王の命令)を発し源氏を中心とした地方武士が平氏に対抗して兵を挙げることになります。

 

 

(以仁王 出典:Wikipedia)

 

 

ちなみに、以仁王は政治的策略から親王にもしてもらえず、皇位継承からも遠ざけられていたお気の毒な方でした。

 

彼の「みんなで力をあわせて平氏を倒そう!」という呼びかけがこの後の時代を創るキッカケになったにもかかわらず、父の後白河法皇からも邪険に扱われ、これらの行動も非難されてしまったようですね。

 

源平の争乱(治承・寿永の乱)の始まり

(治承・寿永の乱「源平合戦図屏風」 出典:Wikipedia)

 

治承・寿永の乱(じしょう、じゅえいのらん)とは、1180年から1185年にかけての日本国内での内乱、つまり源平合戦のことを指しています。

 

今回の富士川の戦いも治承・寿永の乱の一つになります。

 

富士川の戦いがはじまるまでの流れを解説していきたいと思います。

 

①源頼政の挙兵

以仁王へ令旨の発行をもちかけ、最初に挙兵したのが源頼政でした。

 

 

(源頼政 出典:Wikipedia)

 

 

数的にも不利だったことから、11805月京都宇治の平等院にて敗死してしまいますが、以仁王も同じくこの戦いで亡くなってしまいます。

 

源頼朝の挙兵

源頼政の敗死後、源氏一族を滅ぼすべく平氏の動きが進んでいきました。

 

1180年8月それに対して伊豆で三浦氏や北条氏の協力を得て挙兵したのが源頼朝ですが、石橋山で平氏の大庭氏に敗れ安房へ逃走することになります。

 

 

(源頼朝 出典:Wikipedia)

 

 

その後周囲の協力を得ながら、頼朝は徐々に力をつけて10月までに南関東を支配下に置き、鎌倉入りをします。

 

各地での挙兵

同時期に信濃の源義仲(木曽義仲)甲斐の武田信義も同じ清和源氏の一族として兵を挙げていました。

 

ちなみに、この武田信義の子孫が戦国時代の有名な武田信玄ですね。

 

木曽義仲は独自に戦いを進めますが、武田信義と源頼朝は協力体制をとっていきます。

 

富士川の戦いのはじまり

戦いの始まり

【石橋山の戦い】後、頼朝が再度挙兵したことが平氏に伝わったのは同9月のことでしたが、平氏方は平家内部の調整などで1カ月進軍が遅れます。

 

その間に源氏方は着々と力を強め、武田信義は駿府(静岡県)へと進みその目代(もくだい:地方官)を殺害します。

 

対して遅れて進軍した清盛の孫平維盛(これもり)を総大将とした平氏方は数的には源氏方より多かったのですが、内部対立や兵糧不足などの影響で、脱走兵も多くモチベーションもかなり低かったようです。

 

 

(平維盛 出典:Wikipedia)

 

 

当初数万の兵が、実際の戦いの頃には数千まで減っていたとも言われます。

 

『平家物語』からみる戦いの経緯

戦いの詳細を『平家物語』の記述から確認してみましょう。

 

両軍が富士川を挟み、明日は大きな戦いだとする夜、平氏方から源氏方を見てみると、山や野に多くの火が見えたようです。

 

これを源氏の大軍と思い、周囲皆敵だらけだ、どうしよう…と慌てたとされていますが、実は戦いを恐れた民衆が山や舟にのって海などに逃げて、さらに煮炊きの火を灯していただけだったと記されています。

 

大きな勘違いからの終結

その夜に何かに驚いた水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音が強風や雷などに聞こえたことから平氏方は源氏方が大挙して押し寄せ、挟み撃ちにする気だと誰もがとるものも取らずに大慌てで逃走したとされています。

 

そして結果、翌朝源氏方はろくな戦いもせずに勝利の雄たけびを上げたということです。

 

この場所には、富士川の古戦場[平家越]として、現在石碑が立っております。

 

 

(平家越の碑 出典:Wikipedia)

 

 

この戦いの勝利により、武田信義は駿河の国を手中に収め、徐々に西に進軍していきます。

 

また、頼朝は鎌倉での勢力を固めていくことになりました。

 

そして戦いの中で頼朝の下に奥州から弟の源義経がきて感動の対面もあり、後に頼朝は戦いを義経に委ねていくのです。

 

 

(源義経 出典:Wikipedia)

 

 

合わせて翌2月に平清盛が没したことで源氏と平氏の勢力図が大きく変化していくことになりました。

 

ここで1点注意ですが、富士川の戦いは、実は平維盛VS武田信義の戦いでした。

 

あまりに早く終結してしまった為、頼朝の出番はなかったようです。頼朝は後方に控えていることで平氏の恐怖をあおっていただけで参戦できなかったのですね。

 

富士川の戦いのその後

 

富士川の戦いの後、11835月【俱利伽羅峠の戦い】で木曽義仲が奇襲により平氏に勝利、平氏を京から追い出す形で義仲軍が入京します。

 

 

ところが、京で様々な問題を起こした義仲軍に対して、後白河法皇が頼朝に追討を命じ、木曽義仲は頼朝と対立した結果、頼朝の弟である範頼(のりより)と義経に攻撃され、【宇治川の戦い】で敗死しました。

 

 

この後、平氏との戦いの主役は義経に移ります。翌年11842月【一ノ谷の戦い】で奇襲を受けた平氏は屋島へ逃れ、さらに11852月【屋島の戦い】で海に逃れます。

 

 

徐々に西方へ下り敗走を続けた平氏一門ですが、最終的に11853月【壇ノ浦の戦い】において滅亡してしまいます。

 

 

ここで各戦いの詳細は省きますが、これらの戦いを経て、源平の争乱は幕を閉じましたが、富士川の戦いが大きなターニングポイントになったのは間違いないと思われます。

 

そして義経と頼朝の対立から、鎌倉幕府の成立へと時代は続いていったのです。

 

まとめ 

 富士川の戦いとは、1180年からの源平の争乱の一つの戦い。

 平清盛を中心とした平氏一門の繁栄への不満から各地の源氏が挙兵して内乱が起こった。

 以仁王の令旨を各地の源氏が受取り、きっかけとして争乱がはじまった。

 1180年から1185年までの源平の争乱を「治承・寿永の乱」とも呼ぶ。

 「富士川の戦い」は『平家物語』の記述では水鳥の羽音に驚いた平氏が源氏の襲撃と勘違いして敗走し、源氏方の勝利に終わったとされている。

 1180年10月の「富士川の戦い」は争乱における源氏と平氏の勢力図を変えるターニングポイントとなる戦いであった。

関連キーワード