あの時代劇ドラマ「暴れん坊将軍」に登場する主人公の徳川八代将軍・徳川吉宗の時代は、大規模な幕政改革が進められていました。

 

この幕政改革を、享保の改革と呼びます。

 

 

徳川吉宗は、享保の改革の失敗によって「米将軍」と揶揄された徳川吉宗ですが、実は法に関してはかなり熱心であったという記録があるほど。

 

それだけ、公事方御定書の制定については本気だったということがうかがえます。

 

今回は裁判に関わる改革「公事方御定書」について、簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。

 

公事方御定書とは?

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公事方御定書とは、1742年に完成した幕府の司法に関する基準を定めた法典で、享保の改革の中にあった改革の一つでもあります。

 

公事方御定書は、刑事裁判の分野において、それぞれの罪に対する刑罰の基準をあらかじめ定めたものとなります。いわゆる、裁判の判例集のようなものです。

 

これによって、刑事裁判の公平性と迅速化を図るためのものでした。

 

編纂開始から15年半の月日が経過しているのですから、まさに享保の改革の中でも一大事業だったといえるでしょう。

 

公事方御定書を作成するために、徳川吉宗自身が動いた!

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(徳川吉宗 出典:Wikipedia)

 

なんと、この公事方御定書を作成するにあたり、将軍である徳川吉宗自らが動いています。

 

徳川吉宗自身、幼いころから法律が好きだったということもあったようで、中国の法律を長年にわたり勉強したという記録も残っています。

 

そこから多くのヒントを得て、公事方御定書へと落とし込んでいったのです。

 

公事方御定書は、徳川吉宗自身が公事方御定書の編纂を計画・指導し、当時の老中であった松平乗邑(まつだいら のりさと)、三奉行と呼ばれる寺社奉行、町奉行、勘定奉行がその作業を担当しました。

 

皆さんもご存じの、町奉行・大岡越前こと大岡忠相も編纂の作業に当たっていました。

 

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(大岡忠相 出典:Wikipedia)

 

この公事方御定書には、徳川吉宗自身の意見も反映されているのです。

 

公事方御定書は上下2巻セット

 

公事方御定書自体は、上下巻の2から構成されています。

 

上巻には裁判に関する基本法が定められており、その数は81通り!

 

これは、「これをしてはいけない」「こうしなさい」といった法律が明確に定められているのが特徴です。

 

一方、下巻では追加記載の分を含んだ103条の前例や、刑法規定を載せています。

 

どういうことかというと、下巻では罪を犯した際の刑罰を主に定めているのです。

 

このように、上下巻であることによって対をなしているのです。これも、実は中国の法律の特徴を色濃く残していることがわかっています。

 

公事方御定書の内容

 

公事方御定書が、裁判や刑法の判例集であることがわかりましたか?

 

では、公事方御定書で定められた裁判や刑法の判例集というのは、どんな内容だったのでしょうか。

 

内容を少し見ていきましょう。

 

  • 人を殺し、盗みをはたらいた者 引き回しの上、獄門
  • 盗人の手引きをした者 死罪
  • 通りすがりの人から金品を奪った者 獄門
  • 手元にある品を盗んだもの 金で10両以上、品で代金に換算し10両以上 死罪、10両以下は入墨叩敲(いれずみ・たたき)

    などと言った内容が展開されています。

     

    今よりも厳しい刑罰だったんだなぁという感じですよね。

     

    ①刑罰はほかにもいろいろあった

    公事方御定書の内容をちょっとばかりのぞいてみましたが、上記以外にも刑法が存在します。

     

    死刑、叩き(罪人を打つ罰)、入墨のほかに、これまであった追放、遠島(島流し)、手鎖、過料(罰金)など。

     

    当時の刑罰がどんな感じか、なんとなく想像つきますよね。

     

    ②死刑の中にもいろいろな種類があった

    なんと、死刑の種類も複数存在したんです。

     

    のこぎりびき、張り付け、獄門、火罪(火あぶり)、斬罪、死罪、下手人など、実に7種類も存在しました。

     

    中でも、一番重い罪は主殺しで、のこぎりびきの上、張り付けにされるというダブルで辛い刑が科されました。

     

    また、強盗殺人や強盗傷害罪は獄門が科されるケースが多かったようです。

     

    そして、お金を10両盗んでも死罪だったそうです。

     

    公事方御定書の採用後の影響

     

    公事方御定書が完成すると、すぐにその運用は始まりました。

     

    当初の対象は、幕府の直轄地のみでした。しかし、公事方御定書の写本が各地の大名たちに広がり、最終的には全国的な刑法の規定として定められていくこととなりました。

     

    公事方御定書では前述のとおり、ちょっと厳しい内容が定められていましたが、これだけではありません。刑罰や法令に対する考え方が大きく変わったのです。

     

    江戸時代の前半は、罪を犯した人々の多くは、死刑か追放刑の2択しかなく、どちらかの刑罰に処されていました。

     

    どういうことかというと、共同体からの追放という刑罰がこれまで展開されていたのです。

     

    これでは、いくら犯罪を犯したからとはいえ、二度と当初いた共同体に戻ることは敵いません。

     

    しかし、公事方御定書が施行されると、上記のように従来の死刑や追放刑だけでなく、犯罪を犯した人がもう一度社会復帰ができるように配慮した刑罰が追加されています。

     

    罰金や入墨叩敲を見るとよくわかりますよね。

     

    つまり、犯罪を犯した人に対して、更生という共同体への復帰の道が与えられるようになったのです。

     

    実際の裁きにおいては、公事方御定書にのっとった刑罰が科されていたことはもちろん、情状酌量で刑罰の軽減なども行われるといった改革がなされました。

     

    そう考えると、公事方御定書が施行されたことで、犯罪を犯した人にも社会復帰ができるような世の中が目指されるようになったということになりますね。

     

    まとめ

     公事方御定書は、享保の改革の一つ。

     公事方御定書は1742年に完成した、幕府の司法に関する基準を定めた裁判の判例集であり、江戸幕府の基本法典。

     公事方御定書では、それぞれの罪に対する刑罰の基準をあらかじめ定められていた。

     公事方御定書の編纂には、徳川吉宗自身が関与。実際の制作は老中・松平乗邑、寺社奉行、町奉行、勘定奉行の三奉行が作業を担当。町奉行・大岡越前こと大岡忠相も編纂に関与した。

     徳川吉宗は法律に明るく、幼少のころから中国の法律を学び、その知識を公事方御定書へ下ろしていった。

     公事方御定書は編纂開始から15年半で完成、その後も軽微修正が都度行われていく。

     公事方御定書で決められた刑法は、現在のものより厳しめ。

     公事方御定書によって、これまで死刑か追放かしかなかった刑法にバリエーションが生まれた。

     公事方御定書によって、どんな罪にどんな罰が与えられるのかが定められ、明白になった。

     公事方御定書が施行されたことで、犯罪者の更生の道が開けた。

     公事方御定書をもとに実際の裁きは行われたが、場合によっては刑罰の軽減もあった。

     公事方御定書を最初に採用したのは幕府の直轄地のみだったが、公事方御定書の写本が広がったことにより、最終的に全国的な刑法の規定として定めらる。

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