10世紀末には平将門の乱や藤原純友の乱がおこり、最終的には乱を鎮めるものの朝廷は地方武士の実力を思い知ることになりました。

 

続いて11世紀には前九年の役がおこると、源頼義が陸奥の豪族安倍氏による反乱を清原氏の協力により鎮めます。

 

 

しかし、その清原氏の内紛が発展し「後三年の役」がおこります。

 

今回は、この「後三年の役」について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

後三年の役とは?

(後三年の役 出典:Wikipedia)

 

 

後三年の役とは、平安時代後期、前九年の役で勢力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守の源義家が介入し、藤原清衡(きよひら)を助けて清原家衡(いえひら)武衡(たけひら)を滅ぼした戦いのことです。

 

前九年の役で功のあった清原氏は、安倍氏に代わって陸奥や出羽で大きな力を伸ばしますが、内部の勢力争いから内紛が後三年の役に発展していきます。

 

源義家が藤原清衡を助けて平定すると、源義家は東国で基盤を築き、奥羽での地盤を引き継いだ藤原清衡はのちに平泉を根拠地に強大な勢力を築きました。

 

後三年の役が起こった背景

 

後三年の役がおこる約20年前、安倍氏の反乱により長期化していた前九年の役が清原氏の協力もあって収束することになります。

 

そこで、出羽・奥羽に強大な勢力をもつことになった清原氏に内紛がおこったことが後三年の役のきっかけとなりました。

 

①前九年の役の状況

11世紀の半ばから、陸奥で大きな勢力をもつ阿部氏と国司との争いが激しくなります。

 

しかし、源頼信の子の頼義が陸奥守鎮守府将軍となると、阿部氏は服して乱は鎮まったかに見ました。

 

しかし、阿部氏は再び乱をおこすと頼時や頼時の死後に引き継いだ貞任(さだとう)らが中心になって抵抗し乱は長期戦となります。

 

その後、1057年11月の黄海の戦いでは、阿部氏は大兵力で国府軍を圧倒しました。

 

②清原氏の参戦により終結へ

国府軍の頼義らは回復を待つほか、関東、畿内、東海の武士にはたらきかけるなど兵力の増強に奔走します。

 

一方で、中立を保ち続けてきた出羽の豪族清原氏にも参戦を依頼すると、10627月に族長清原光頼は弟の武則を総大将とする軍を派遣しました。

 

これにより、朝廷側の形勢は一気に好転すると、次々に柵を陥落させて阿部氏を滅ぼすことに成功します。

 

のちに、1063年の除目(じもく)で武則は戦功により従五位下鎮守府将軍に任じられ、さらに奥六郡を与えられると清原氏は奥羽で揺るぎない権勢を手に入れました。

 

後三年の役のはじまりと経過

 

前九年の役のあと陸奥出羽で大勢力を持つようになった清原氏でしたが、一族内で内紛がおこります。

 

内紛が激しくなると、源義家が介入して藤原清衡を助けて家衡を討ち取り、乱は平定されます。

 

①清原氏の内部分裂

前九年の役で戦功を得た清原武則はのちに清原家の当主となり、息子の武貞、その嫡子の真衡(さねひら)へと当主は継承されます。

 

一方で、武貞はもともと阿部氏の有力豪族の藤原経清の妻であったと婚姻関係を結んでいました。

 

有加一乃末陪には連れ子がおり、武貞の養子となると清原清衡と名乗ります。その後に生まれたのが惣領家の血を引く家衡でした。

 

清衡の父は違いますが、これで真衡、家衡、清衡の三兄弟となります。

 

武貞が亡くなり当主の座についた真衡は、嫡男が生まれなかったために桓武平氏の血を引く養子を迎えます。これが成衡でした。

 

さらに、真衡は源氏の血を引く娘を迎えて成衡と婚姻させると、惣領家に近い系統の血統となりました。

 

これにより、家衡は清原氏と阿部氏の惣領家の血を引いているため、清原氏の嫡流から外れることになってしまいます。

 

②源義家の陸奥入りと真衡の死

真衡は不仲となっていた叔父の吉彦秀武に討伐の兵を挙げると、秀武のほうは家衡と清衡に蜂起を促し2人を味方につけて真衡の館に迫ります。

 

真衡が軍を返して家衡と清衡を討とうとすると2人は本拠地に退きました。

 

真衡が秀武を狙う中、1083年秋に成衡の義兄にあたる源義家が陸奥守として陸奥国に入ると、真衡は多賀城で3日間にわたってもてなします。

 

ところが、その後すぐに出羽に出撃し、家衡と清衡の本拠地への攻撃を守りきます。

 

真衡は国府の加勢もあって大勝し家衡と清衡に降伏させましたが、出羽に向かう行軍中で病により急死してしまいます。

 

③清衡と家衡の争い

真衡が死んだあと義家は真衡の所領の奥六郡を3郡ずつ分け与えますが、これに不満を持つ家衡は1086年に清衡の館を襲撃しました。

 

清衡は妻子を含む一族みな殺されてしまいますが、自身は一命を取り留めます。

 

身寄りを失った清衡は義家を頼って家衡に対抗しますが、清衡・義家連合軍が沼柵に籠る家衡を攻撃した際には敗れてしまいます。

 

この結果から、武貞の弟である武衡は家衡と合流し、難攻不落の金沢柵に陣を構えました。

 

1087年、清衡・義家軍は家衡・武衡軍が籠る金沢柵を攻めたてますが、善戦するも金沢柵を落とすにはいたりませんでした。

 

そこで、吉彦秀武の提案により兵糧攻めを転じると、食糧の尽きた家衡・武衡軍は金沢柵に火をつけて逃走します。

 

しかし、武衡は逃亡中に捕らえられて斬首され、家衡も逃亡を図るも討ち取られます。

 

④戦後の動き

この戦を私戦とした朝廷は、恩賞を与えることもなく戦費の支払いもしませんでした。

 

それどころか、戦の間に貢納を怠って戦費にまわしていたとして遡って未納分を請求され続け、高位の官職に就くことはありませんでした。

 

義家は恩賞に預かることはありませんでしたが、関東から戦地に向かった軍には私財から恩賞を出したことが関東での源氏の名声を高めた一因であると言われています。

 

清衡のほうは奥六郡を領する大勢力を持つこととなり、のちに実父の姓である藤原に姓を戻しました。

 

これが奥州藤原氏の祖となります。

 

後三年の役のその後

 

後三年の役で勝利した義家と清衡は、恩賞に預かることはありませんでしたが、その後はそれぞれに勢力を拡大し一大勢力を持つこととなります。

 

①義家と東国武士団

この戦いを通じて義家を中心として源氏と東国武士団の主従関係が強まり、源氏は武士の棟梁としての地位を固めていきます。

 

これにより、東国武士団の中には義家に土地を寄進して保護を求めるものが増えていきました。

 

このころの地方武士は大名田堵(たと)として経営を維持しながら、開発領主として成長して領地を拡大したり保護を求めるものが多くなります。

 

義家は、これらの地方武士を家人(けにん)として組織しながら強固な結びつきをつくりました。

 

②奥州藤原氏の祖としての清衡

藤原姓となった清衡が奥羽での統治者としての地位を築くと、平泉を根拠地に奥州と出羽で権勢を振るいます。

 

金や馬の産物によって財をなすと、摂関家と近づき京都文化を移入するとともに宋など北方との交易で独自の文化を育てていきました。

 

これらのことが、子の基衡、孫の秀衡の代まで3代100年に渡る奥州藤原氏の栄華の基礎を築くことになりました。

 

実際には曾孫の泰衡が4代目として家督を継いでいますが、家督を継いでから2年足らずで源頼朝軍に討たれてしまいます。

 

まとめ

 前九年の役で勢力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守の源義家が介入し、藤原清衡を助けて清原家衡・武衡を滅ぼした戦いのこと。

 前九年の役で敵将の嫡男であった清衡でしたが、母が清原武貞と再婚して養子となったことで清原氏の内紛に大きく影響を及ぼした。

 後三年の役で勝利した義家と清衡は、戦後それぞれに勢力を拡大しのちの世代の基礎を築くことになった。




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