源頼朝が開いた鎌倉幕府は、1333年(元弘3)に約150年の歴史を終えました。鎌倉幕府はなぜ滅亡することになったのでしょうか?

 

今回はそんな『鎌倉幕府の滅亡の理由』や、鎌倉幕府滅亡後についてわかりやすく解説していきます。

 

まずは滅びる前の鎌倉幕府。その誕生までの歴史を見ていきましょう。

 

鎌倉幕府の歴史

(鎌倉幕府を開いた源頼朝 出典:Wikipedia

 

 

150年続いた鎌倉幕府の時代。まずは、その歴史をおさらいしてみましょう。

 

①幕府の成立

長い間平氏と対立していた源氏でしたが、1185年(元暦2)に「壇ノ浦の戦い」で源氏が平氏を滅ぼします。平氏との戦いに勝利した源頼朝は、全国に守護・地頭を設置しました。

 

そのため、近年では鎌倉幕府の成立年は1185年説が有力になっています。1192年(建久3)には、源頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府は正式に成立しました。

 

鎌倉幕府では、全国の御家人(武士)と幕府の間には「御恩と奉公」の関係から成る「封建制度」が設けられました。

 

御家人は幕府のために戦い、幕府は御家人に恩賞(褒美)として土地を与えるという関係にあったのです。

 

②北条氏の執権政治

初代将軍の源頼朝は、将軍に就任してからわずか7年後の1199年(建久10)に亡くなってしまいます。

 

その後、頼朝の息子・源頼家が2代将軍になりますが、頼家はこのとき18歳という若さのため、頼朝の妻・北条政子の北条氏が代わりに政治をすることになりました。

 

その北条氏とうまく関係を築けず、病を患ってしまった頼家は将軍の座から降ろされ、3代将軍に源実朝が就任しました。北条時政はこのとき、実朝の補佐役として「執権」という職に就きます。こうして幕府で力を持った北条氏でしたが、それを良く思わない御家人との争いも起きました。

 

3代将軍実朝は暗殺され、源頼朝の直系の子孫はいなくなり、結局、源氏の将軍は3代で終わってしまいます。困った幕府は、頼朝の遠い親戚にあたる幼い藤原頼経を新しい将軍にし、政治の実権は執権の北条氏が握ることになりました。

 

③元寇と得宗専制

(元寇 出典:Wikipedia)

 

 

8代執権北条時宗の時代になると、当時大きな勢力を誇っていたモンゴル帝国の元軍が2度、日本へ攻め入ってきます。これを「元寇」といいます。

 

1274年(文永11)の「文永の役」1281年(弘安4)の「弘安の役」という2度にわたる元寇を無事に退くことができた幕府は、九州の御家人への支配も強めました。

 

1285年(弘安8)に、有力御家人の安達泰盛と北条氏得宗家に仕えていた平頼綱の間で「霜月騒動」という対立が起きます。

 

この霜月騒動で、北条氏と対立する御家人は一掃されてしまい、北条氏の宗家である北条得宗家による「得宗専制」という独裁的な政治体制が出来上がりました。

 

鎌倉幕府の滅亡

 

 

北条得宗家による独裁的な政治は続きましたが、その権力にあぐらをかいて、仕事を真面目にしなくなり、将軍と同じように幕府のお飾りのような存在に成り下がってしまいました。

 

①後醍醐天皇の反乱

堕落した幕府を見て立ち上がったのが、後醍醐天皇でした。

 

(後醍醐天皇 出典:Wikipedia)

 

 

後醍醐天皇は「武士ではなく天皇が政治を行っていた時代のようにしよう」と、倒幕の計画をします。

 

この倒幕計画に多くの御家人も参加しますが、幕府に計画が知られてしまい、後醍醐天皇の側近の公家が処罰されてしまいました。これを「正中の変」といいます。

 

後醍醐天皇は諦めず、再び倒幕計画を企てます。しかしこれもまた実行する前に幕府に知られてしまい、今度は後醍醐天皇が隠岐島へ流されてしまいました。これを「正弘の変」といいます。

 

しかし、得宗専制に不満を持つのは後醍醐天皇だけではなかったのです。楠木正成や赤松則村など、各地で「悪党」と呼ばれる武士が、幕府を倒そうと兵をあげました。

 

②北条氏の滅亡

後醍醐天皇は隠岐島から脱出し、再び倒幕のために動き出します。

 

すると幕府側にいた足利尊氏は幕府を裏切り、倒幕側に味方したのです。

 

(足利尊氏 出典:Wikipedia)

 

 

こうして、足利尊氏や赤松則村などによって京都の六波羅探題は攻め落とされます。

 

さらに、幕府を倒すために兵を挙げた新田義貞は、北条氏がいる鎌倉に攻め入り、後がなくなった北条氏は東勝寺で自害しました。これを「東勝寺合戦」といいます。

 

(新田義貞 出典:Wikipedia)

 

 

北条氏が滅亡したことにより、鎌倉幕府も終わりを迎えました。

 

鎌倉幕府が滅亡した理由

 

 

最後は天皇と御家人に追い詰められて北条氏が滅亡したことで、約150年続いた鎌倉幕府も終わりを迎えました。

 

では、鎌倉幕府はなぜ滅亡したのでしょうか?

 

①恩賞不足

鎌倉幕府では、幕府と御家人の間には「御恩と奉公」という関係がありました。御家人は幕府のために戦い、その代わり、幕府は御家人に恩賞として土地を与えるという関係です。

 

モンゴル帝国が日本に侵攻してきた「元寇」で日本は勝利しましたが、その後、恩賞の不足に幕府は頭を悩ませました。

 

戦いが起きたら、負けた方の土地を奪い、その土地を勝った御家人に分け与えればいいのですが、元寇では、戦いに勝利はしたものの、幕府が得た土地はありません。そのため、元寇で活躍した御家人たちに、幕府は十分な恩賞を与えることができませんでした。

 

これにより、御家人の幕府に対する不満は高まったといいます。

 

②苦しむ御家人

鎌倉幕府の時代、御家人の領地は分割相続されていました。

 

領地を子供(女子も含む)がいる分、均等に分割して与えるということです。しかし、これだと公平ではありますが、領地が細かくなりすぎて、領地の価値が低くなってしまいます。

 

また、分割相続を繰り返せば、子孫がもらえる領地はどんどん小さくなってしまいます。

 

こうして御家人の生活が苦しくなってきたのに加えて、元寇で恩賞はもらえず、兵を挙げる費用だけを負うことになり、御家人は借金などに苦しむことになりました。そして、その原因を作っている幕府に対して、不満が高まっていったのです。

 

幕府もこの状況を受け止め「永仁の徳政令」という、御家人の借金を帳消しにする徳政令を出しました。しかし、この徳政令の効果は薄く、御家人の幕府に対する不満は高まる一方でした。

 

 

③裏切られた北条氏

「正弘の変」で、北条氏は自分たちの味方についていた有力御家人の足利尊氏に裏切られてしまいます。

 

また、新田義貞も多くの関東の御家人から支持を集めて幕府と戦いました。

 

幕府に対する高い不満により、北条氏は自分の窮地を救う仲間を失ってしまったのです。

 

鎌倉幕府の滅亡後

 

 

1333年(元弘3)、鎌倉幕府が滅亡したのち、世の中はどう変わったのでしょうか。

 

①建武の新政

鎌倉幕府を見事倒幕することができた後醍醐天皇は、京都へ帰って「建武の新政」を行います。

 

建武の新政は天皇中心の政治で、武士よりも公家(貴族)を大切にした政治でした。そのため、武士の間で不満が高まりました。

 

1336年(建武3)、足利尊氏は後醍醐天皇のいる京都へ攻め込み、戦いを制したことで、建武の新政はわずか2年半ほどで終わりを迎えてしまいました。

 

戦いに勝った尊氏は公明天皇を即位させましたが、逃げ伸びた後醍醐天皇は奈良の吉野に朝廷を置きました。

 

尊氏の京都の朝廷を「北朝」、後醍醐天皇の奈良の朝廷を「南朝」とよび、二つの朝廷が約60年間対立していた時代を「南北朝時代」といいます。

 

②室町幕府へ

南朝の有力武将である北畠顕家が「石津の戦い」で敗北し、南朝の総大将だった新田義貞も「藤島の戦い」で敗北したことにより、約60年間対立していた南北朝時代は、終わりを迎えることになりました。

 

北朝の足利尊氏は1338年(暦応元)、征夷大将軍に任命され、室町幕府が成立しました。

 

まとめ

・源氏の将軍が3代で終わったあと、執権の北条氏が幕府の実権を握っていた。

・幕府に不満を持った後醍醐天皇が倒幕計画を実行した。

・足利尊氏や多くの御家人を敵に回し、北条氏と鎌倉幕府は滅亡した。

・元寇で活躍した御家人に与える恩賞が不足していた。

・御家人は幕府の制度のせいで借金に苦しんでいた。

・鎌倉幕府が滅亡した後は、後醍醐天皇による建武の新政が行われた。

・足利尊氏により建武の新政は終わり、南北朝時代を経て室町幕府が成立した。

関連キーワード