【征夷大将軍とは】簡単にわかりやすく解説!!意味は?摂政・関白との違いなど

 

日本の歴史の中で700年も政権を握っていた武士。

 

その中でも武士の中で一番偉かったのが征夷大将軍でした。

 

今回はそんな『征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

征夷大将軍とは?

 

 

征夷大将軍とは、平安時代初期から置かれた東北地方の蝦夷を討伐するために新たに置かれた役職のことです。

 

しかし、時代とともにそのイメージは薄れ、鎌倉時代になると幕府を開く武士のトップという地位に様変わりしました。

 

平安時代の征夷大将軍

(桓武天皇 出典:Wikipedia)

 

 

平安時代初期、当時の天皇であった桓武天皇は東北地方にいる蝦夷を討伐しなければと必死でした。

 

実は奈良時代から蝦夷というのは朝廷からちょこちょこと征伐されており、征夷大将軍という名前ではなかったものの、陸奥鎮東将軍として蝦夷の討伐に向かっていました。

 

しかし、それだけでは蝦夷の討伐としてのランクが足りない。そこで桓武天皇は新しく役職を作って蝦夷の討伐に当たらせることにしました。この時作られた役職こそ征夷大将軍です。

 

ここで少し余談なんですが、初代征夷大将軍になったのは坂上田村麻呂と学校で習ったと思いますが、実はこれは誤りで、実際には大伴弟麻呂という人が最初の征夷大将軍となっています。

 

 

(坂上田村麻呂 出典:Wikipedia)

 

 

まぁ、この人は影がうすいので平安時代の時の征夷大将軍は坂上田村麻呂だと思ってください。

 

右近衛大将なんて嫌だ!源頼朝が将軍になるまで

(源頼朝 出典:Wikipedia)

 

 

時代は降って12世紀後半。この頃東国を完全支配し、さらに平家を討伐した源頼朝はとある一つの悩みを持っていました。

 

源頼朝という人は実は朝廷をあまりよく思っておらず、平清盛みたいに朝廷と血縁関係を結んで摂関政治みたいに朝廷の権力を握ることはしませんでした。

 

そして1190年、源頼朝は朝廷から右近衛大将という役職に就任します。右近衛大将という役職は近衛府という朝廷の軍事を司っている役職のトップ2であり、武士としては名誉ある地位でした。

 

しかし、源頼朝はこの役職を気に入りません。

 

①右近衛大将が気に入らない理由と将軍就任

実はそこには右近衛大将の役割にあったのです。

 

右近衛大将というのは確かに武士では名誉ある地位でしたが、実は近衛府という役割が朝廷を守るためにあるため基本的には京都にいなければなりません。

 

元々朝廷の役割なんですからこれは当たり前だと思うのですが、源頼朝自身は京都にいるよりも自身の本拠地である鎌倉に独立政権を作る方が割にあっていたのです。

 

そこで頼朝が目をつけたのが征夷大将軍でした。

 

この頃はもう蝦夷は北海道に逃げており役割はほとんどなかったのようなものでしたが、征夷大将軍に就任すると右近衛大将とは違い、地方の軍事の役職なため京都にいる必要がありません。

 

また、当時かつて蝦夷がいた東北地方には奥州藤原氏という源頼朝とライバル関係にあった独立政権が存在していました。

 

 

(奥州藤原氏 出典:Wikipedia)

 

 

そこで頼朝はこの征夷大将軍に就任すれば鎌倉に軍事政権を立てることができる上に奥州藤原氏を倒す大義名分が生まれると考えたのでした。

 

こうして1192年。いい国作ろうと源頼朝は征夷大将軍就任。いろんな説がありますがこれによって頼朝は鎌倉に幕府を開くようになり武士の時代がスタートしました。

 

②なんで幕府っていうの?

さて源頼朝が征夷大将軍に就任したお陰で鎌倉に幕府が開かれましたが、皆さんはどうして武士の政権のことを幕府と呼ぶのかご存知でしょうか?

 

幕府という言葉は元々中国の言葉で幕が武士の本陣、府が役所という意味がありました。

 

つまりこの言葉を合わせると幕府は武将が王や皇帝に代わって軍を指揮する役所という意味となります。

 

それが平安時代に日本に来ると先程紹介した近衛大将の中国風の名前に使われるようになり、そして武士が政権を握った本拠地のことを幕府と呼ぶようになりました。

 

つまり幕府は武士のトップの本拠地、そして武士が政治をするところという意味なのです。

 

鎌倉以降の征夷大将軍

①源氏将軍と宮将軍 (鎌倉時代)

源頼朝は晴れて征夷大将軍となり、さらに鎌倉に幕府を開くことができたのですが、この頼朝がの子孫がこの征夷大将軍になったのはわずか2人しかいませんでした。

 

理由は簡単です。なんと頼朝の子孫たちは全員暗殺されたのです。

 

二代将軍である頼家は幽閉された後に暗殺。これは北条政子が関わっていると言われていますが、真相は謎のままです。

 

さらに、実朝も頼家の息子である公暁によって暗殺。こうして頼朝出身である河内源氏は滅亡しました。

 

その後権力を握った北条氏は皇族の九条頼経を将軍にし、自身は執権として政治を行なっていくようになります。

 

(九条頼経 出典:Wikipedia)

 

②室町幕府時代の征夷大将軍

1333年鎌倉幕府が滅亡して、建武の新政に突入すると武士が政治をすることは一旦無くなります。

 

 

しかし、建武の新政に反抗した足利尊氏はこれに謀反します。

 

 

(足利尊氏 出典:Wikipedia)

 

 

後醍醐天皇を倒すために光厳天皇という別の天皇を即位させ尊氏は征夷大将軍に就任。室町幕府を開きます。

 

その室町幕府が最盛期を迎えたのが3代将軍足利義満の頃。義満は天皇の権限をどんどん奪っていき、自身が天皇かのように振る舞い始め、最終的には上皇になろうと計画します。

 

しかし、この計画が達成される前に義満は死去。6代将軍足利義教の頃には守護大名によって暗殺されてしまう嘉吉の乱が起きてしまいます。

 

 

さらに8代将軍足利義政の頃には応仁の乱が起こり始め将軍の権威はどんどん地に落ちていき、そして結局1573年、織田信長によって室町幕府が滅ぼされてしまい、一旦幕府は消滅しました。

 

③江戸時代の征夷大将軍

(徳川家康 出典:Wikipedia)

 

 

関ヶ原の戦いから3年後の1603年、徳川家康が朝廷から征夷大将軍に任命され、本拠地の江戸で幕府を開きます。

 

徳川幕府の頃になると鎌倉幕府と室町幕府の反省を生かして将軍の権威を底上げして幕府を安定させるように図っていきます。

 

その中で作られたのが武家諸法度と禁中並公家諸法度

 

 

武家諸法度は全国の大名に対して作られた法律でこれを破ると容赦なく改易させられました。

 

禁中並公家諸法度は朝廷と天皇に対して作られた法律でこれによって朝廷の権威は弱くなります。

 

こうして江戸幕府はこれまでの幕府とは比べ物にならないほどに安定して265年の平和を掴み取ることに成功します。

 

しかし、時代が下っていきペリーが来航すると幕府の権威が揺らぎ始め、そして尊皇攘夷派の武士たちが倒幕運動を起こすと一気に崩れ、最終的には15代徳川慶喜のとき大政奉還(1868年)によって幕府消滅。

 

 

(徳川慶喜 出典:Wikipedia)

 

 

さらに王政復古の大号令によって幕府が廃止されるともう2度と武士が政権を握ることはなくなりました。

 

 

征夷大将軍と関白と摂政の違い

 

 

征夷大将軍の他にも似たような役職が関白と摂政です。

 

この3つの役職は令外官といって全て後から付け加えられた役職だったのです。

 

しかし、関白と摂政が天皇の補佐をする役職に比べて、征夷大将軍は元々蝦夷を討伐する役職だったため結構天皇とは離れている存在でした。

 

まとめ

 征夷大将軍とは元々蝦夷を討伐する役職だったが、時代が経つにつれて武士のトップの役職になっていった。

 源頼朝は最初は右近衛大将になっていたが、1192年に征夷大将軍に就任して鎌倉に幕府を開いた。

 その後幕府は室町幕府と江戸幕府に繋がっていった。

 幕府は王政復古の大号令の時に廃止された。