鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇によって建武の新政が行われます。

 

どんな政治だったのか、何が原因で失敗したのかなど、ポイントを押さえてしっかり覚えましょう。

 

今回は その点も踏まえ『建武の新政』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

建武の新政とは

(建武政権の天皇旗 出典:Wikipedia

 

 

鎌倉幕府が滅亡した翌年の1334年~1336年、後醍醐天皇が始めた新しい政治建武の新政といいます。

 

年号を「建武」と改めてから行った「新」しい「政」治で、建武の新政です。「新」の字を「親」と間違えないようにしましょう。

 

この政治では、古代的な天皇親政を復活させようとしますが、足利尊氏の反乱により、結局はわずか3年で崩壊してしまいます。

 

建武の新政までの流れ

(鎌倉幕府を開いた源頼朝 出典:Wikipedia)

①2度の討幕計画

14世紀になると、西国では悪党(幕府や荘園領主に従わない新興領主層)の動きが次第に大きな広がりを見せ始めましたが、そのころ幕府では得宗専制政治が極度にすすんでいました。

 

多くの守護や地頭、幕府の重要な役職などが北条氏によって占められ、北条氏と対等であるはずの有力御家人も北条氏にしたがいました。

 

御家人の名門足利氏も北条氏につかえ、その惣領は執権の北条高時から名前の一字をもらい、足利高氏と名乗っていました。

 

この時期に幕府をおどろかせたのが、後醍醐天皇による正中の変と元弘の変の2度にわたる討幕計画の発覚です。

 

②朝廷側の動き

そのころの朝廷は幕府に実権を奪われ、しかも後嵯峨天皇ののち、皇位や皇室領の荘園をめぐって持明院統と大覚寺統の2つの皇統が対立しており、討幕をおこなうほどの力はないとみられていました。

 

幕府はこの皇統の対立に対し、両統が交代で皇位につく両統迭立の方式を提唱したりして、朝廷の政治を左右していました。

 

ですが、西国の高い経済力と、寺社や悪党の勢力の成長を背景に、両統迭立に不満をもつ後醍醐天皇が、天皇中心の政治の復活をめざして討幕計画をおこしたのが、2つの事件です。

 

1324年9月、後醍醐天皇の討幕計画が発覚します。これが正中の変です。

 

このときは側近の処罰だけですみましたが、1331年5月にふたたび討幕計画が発覚すると、ついに後醍醐天皇もつかまり、現在の島根県隠岐島(おきのしま)に流されてしまいました。これが元弘の変です。

 

(後醍醐天皇 出典:Wikipedia)

 

③鎌倉幕府の滅亡

計画は2度とも失敗に終わりましたが、これをきっかけに畿内周辺の寺社勢力や悪党勢力、さらに北条氏に反発する御家人もたちあがりました。

 

後醍醐天皇は隠岐に流された後も、幕府打倒を諦めず、隠岐から全国に鎌倉幕府を倒せと呼びかけ続けます。

 

また、後醍醐が流された後も、後醍醐の皇子護良親王や楠木正成らは、畿内周辺でねばり強く幕府に対する抵抗活動を続けました。

 

楠木正成は河内国(現在の大阪府南東部)出身の武士で、悪党として活動していたことも知られています。

 

こうした抵抗に幕府軍が手間取っているうちに、各地で後醍醐の呼びかけに応じる武士が現れ、それぞれ博多の鎮西探題や京都の六波羅探題、そして鎌倉と、幕府の拠点を襲いました。

 

1333年5月、これらの拠点がつぎつぎに落とされ、ついに鎌倉幕府は滅びました。

 

御家人をひきいて幕府にそむき、六波羅探題を攻め落とした高氏はその功により、後醍醐天皇の名尊治(たかはる)の一字を与えられ、尊氏と名を改めました。

 

1333年6月、隠岐から京都にもどった後醍醐は、天皇に復帰します。

 

後醍醐が隠岐に流された後に即位していた持明院統の光厳天皇はやめさせられ、その即位自体が取り消されました。

 

政界に復帰した後醍醐天皇は、鎌倉幕府にかわって天皇中心の新政治をはじめます。それが建武の新政です。

 

建武の新政の誕生

(後醍醐天皇 出典:Wikipedia)

①後醍醐天皇の基本的な考え方

後醍醐天皇は、天皇親政の理想のもとに、摂政・関白を廃止し、意欲的な新しい政治を目指しました。

 

後醍醐の政治に対する意欲は、生前に自分自身で「後醍醐」という諡号(しごう)を用意していたことからもうかがえます。

 

諡号とは亡くなった天皇に対して贈られる称号ですから、あらかじめ自分の諡号を決めておくというのは異例のことです。

 

10世紀の醍醐天皇の時代は、天皇を中心とする理想的な政治が行われた時代と考えられていました。

 

後醍醐はその再現を目指しており、「後醍醐」と呼ばれることを強く望んだのです。

 

②様々な政策

後醍醐天皇は公武協調を建前として、中央に記録所・雑訴決断所・恩賞方・武者所を置き、地方には国司と守護を併置しました。

 

記録所は一般政務を担当し、雑訴決断所は裁判を担当。

 

雑訴決断所には公家とともに、鎌倉幕府出身者や鎌倉幕府打倒に功績のあった武士なども加わって、新政治に寄せられたさまざまな問題の解決にあたりました。

 

恩賞方は建武の新政に味方した武士の論功行賞を扱う機関で、武者所は主に京都の治安維持を目的とした軍事・警察機関です。

 

このように、改革を推し進めていった後醍醐天皇でしたが、その急進的すぎる政策には各方面から不満が寄せられる結果となってしまいます。

 

【新政失敗の理由】各所からの不満

 

 

後醍醐の考えは、そのころの公家たちの考え方と完全に同じではありませんでした。

 

後醍醐は「私の行う『新儀』は将来の先例になるのだ」といって政治改革を推し進めていきます。

 

しかし、ただ先例に従うのがいいことであると考え、『新儀』つまり新しいことを避けていたそのころの公家たちは、後醍醐の政治改革は激しすぎてついていけないと感じました。

 

武士たちも建武の新政には不満でした。後醍醐は幕府にかわって、武士たちの領地を直接安堵する政策をうちだしました。

 

安堵とは、領地がその武士のものであると保証することです。

 

しかし、その方針がよく変わったうえ、すべてを後醍醐が認可しようとしたために、つぎつぎによせられる安堵の要求をさばき切れず、かえって大きな混乱をもたらしました。

 

また、建武の新政は農民たちの期待も裏切るものでした。

 

1334年1月、後醍醐はみずからの絶対性を誇示するために、大内裏の造営を発表しました。

 

戦乱による疲弊がなお色濃く残っている時点において、ばく大な経費を必要とする造営の強行は、民衆生活の安定を全くかえりみないことを意味します。

 

費用を賦課された諸国の武士は、その負担を支配下の農民に押し付けました。

 

このため、農民の経済生活は強く圧迫されることとなりました。

 

こういった政治の混乱は二条河原落書に「このごろ都にはやる物」として書き記されています。

 

これは、平安末期に流行した今様の物づくし歌によりつつ、七五調を基本とした歌謡の形式をとっており、建武政権下の、揺れ動く不穏な世相を冷徹な目で把握し、鋭く風刺したものでした。

 

建武の新政のその後

(足利尊氏 出典:Wikipedia)

 

 

後醍醐天皇の建武の新政に武士たちが失望し始めたなかで、次第に彼らの期待を集めたのが足利尊氏でした。

 

尊氏は六波羅探題を滅ぼしたころから、諸国の御家人との主従関係を作り始め、新政府のもとでも勢力を増大させていたのです。

 

1335年、北条高時の子時行の乱(=中先代の乱)を討つため鎌倉にむかった足利尊氏は、これを機会に武家政治の再興をはかり、新政府に反旗をひるがえします。

 

後醍醐は尊氏にただちに京都に戻るよう命令しましたが、尊氏はこれに背き、後醍醐天皇のもとに復帰する意思がないことをあきらかにしました。

 

ここに建武の新政は崩れ、ふたたび時代は内乱へとむかっていくことになります。

 

建武の新政は何時代?年号の覚え方は?

 

 

これまで説明した通り、建武の新政は鎌倉幕府滅亡後の出来事なので、鎌倉時代ではありません。

 

しかし、この頃は南北朝の動乱期に入っていき、室町幕府が成立するのも建武の新政の後ですので、正確には何時代とは言い難い時期です。

 

一般的には、建武の新政は南北朝時代、もしくは室町時代に区分します。

 

建武の新政が始まったのは1334年ですから、年号の覚え方としては・・・

 

「いざ見よ(1334)!建武の新政」

 

と覚えるのがよいでしょう。

 

まとめ

・建武の新政とは、鎌倉幕府が滅亡した翌年の1334年、後醍醐天皇が始めた新しい政治のこと。

・後醍醐天皇は、天皇中心の新政策を打ち立てたが、武士・貴族・農民の各方面からの不満をつのらせる結果となった。

・建武の新政は、一般的には南北朝時代もしくは室町時代に区分する。

・年号の覚え方は「いざ見よ(1334)!建武の新政」。




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