10世紀に各地で反乱を起こした地方武士の源氏平氏は、その実力が知られることとなり、朝廷や貴族たちは武士を侍として奉仕させるようになります。

 

東国で勢力を広げていた源氏の勢いがやや衰えると、平氏は朝廷との関係を深めながら勢力を伸ばします。

 

さらに、平氏が勢力を強めて全盛期を迎えるきっかけとなったのは、武士を巻き込んだ朝廷の2つの争いでした。その一つが「平治の乱」です。

 

今回は、この『平治の乱』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

平治の乱とは?

(三条殿焼討 出典:Wikipedia

 

 

平治の乱とは、1159年に藤原信頼が源義朝とともに藤原通憲を自殺に追い込むと、平清盛が信頼を滅ぼして義朝を討ちとった事件のことです。

 

そのきっかけは、院政を行う後白河上皇の近臣同士の対立によるもので、清盛と結ぶ通憲に対し清盛の不在中に義朝と結ぶ信頼が兵を挙げ襲撃したことでした。

 

京都に戻った清盛が信頼らを滅ぼし義朝を討ちとると、清盛の地位と権力は急速に高まり平氏の全盛期を迎えることになります。

 

平治の乱が起こった背景

 

保元の乱に続いて起きた平治の乱でも、朝廷の皇位継承の争いや貴族内部の争いが武士の力で決着される結果となりました。

 

 

武士が台頭してから朝廷との結びつきを強めることで勢力を伸ばし、平忠盛や平清盛など殿上の間に昇る昇殿が許されるほどの高位を得ることもありました。

 

このような朝廷と武士との結びつきが保元の乱や平治の乱が起きたきっかけになったとも考えられます。

 

①武士の成長

10世紀には、成長した豪族が朝廷の武官となり貴族に武芸を持って仕えるようになります。

 

この頃から武士と呼ばれ、宮中の警備や貴族の身辺や都の警護にあたりました。

 

武士は、兵(つわもの)と呼ばれる地方の武装した豪族や有力農民とともに武士団を形成し力をつけます。

 

桓武天皇の子孫の高望王(たかもちおう)から姓を与えられた桓武平氏が、東国に根を下ろし下総(しもうさ)を中心に私闘を繰り返し発展したのが将門の乱でした。

 

同じ頃の藤原純友が瀬戸内海の海賊を率いて起こした純友の乱では、清和源氏の祖である源経基が純友を討ち乱をおさめます。

 

 

こうして、朝廷や貴族たちは朝廷の軍事力の低下と地方武士の実力を知ると、諸国の追捕使(ついぶし)や押領使(おうりょうし)に任命することもありました。

 

11世紀後半には、前九年合戦後三年合戦において源氏が東国武士団と主従関係を強めて勢力を広げます。

 

②院政の開始

1086年に白河上皇院政を始めると、院の御所に北面の武士や武者所を組織し、源義家平正盛らの武士団に護衛させるなど院の軍事力を高めていきます。

 

 

これが武士が中央の政界に進出するきっかけとなります。

 

大寺院は荘園を拡大しつつ、多くが地方武士出身である下級僧侶を僧兵(そうへい)として組織します。

 

中でも興福寺延暦寺の僧兵は度重なる強訴(ごうそ)を行い力を持っていました。さらに、奥州平泉を根拠とする奥州藤原氏も台頭します。

 

このように、院や大寺院などが独自の権力を持ち、社会を実力で動かそうとする風潮が強まります。

 

③保元の乱

12世紀初頭は、平正盛が反乱を起こした源義親を討つと、受領(ずりょう)や検非違使(けびいし)となって地位を高めました。

 

その子忠盛は瀬戸内海の海賊平定などで鳥羽上皇の信任を得ると、千一体の千手観音像を安置する得長寿院を造営して昇殿が許され重用されることになります。

 

平氏は忠盛の子清盛がさらに勢いを伸ばす一方で、源氏は源為義摂関家と結びつき、その子義朝が関東の武士と主従関係を強めました。

 

(源義朝 出典:Wikipedia)

 

この頃の鳥羽法皇は源平の武士を組織するなど専制的な権力を強めますが、1156年に死去すると皇位継承をめぐって対立していた崇徳上皇藤原頼長らと結び平忠正や源為義らの武士を集めます。

 

これに対し、鳥羽上皇の立場を引き継いだ後白河天皇は藤原通憲信西(しんぜい))を参謀に平清盛、源義朝らの兵を動員して上皇方を破ります。

 

 

(平清盛 出典:Wikipedia)

 

 

崇徳上皇は讃岐に流され、藤原頼長や源為義は殺される結果となります。これが保元の乱です。

 

この乱は、これまでに京都で合戦がなかったこと、武士が政争に使われたことから貴族に衝撃を与えるとともに時代の転換を印象づけることになり、愚管抄では「武者の世」になったと記されました。

 

平治の乱の経過と結果

二条天皇の六波羅行幸 出典:Wikipedia

①藤原通憲の執政

保元の乱後、後白河天皇は藤原通憲が立案した「保元の新制」を出します。

 

この新制は荘園整理が中心であり、全ての土地は本来天皇のものという王土思想(おうどしそう)をもとに荘園における混乱を収拾するものでした。

 

通憲は新たに新制30ヶ条を出すなど政務に取り組みながら、その過程で通憲とその一族は高位を得たほか経済基盤を確立させていきました。

 

また、通憲は清盛を厚遇し、その兄弟も受領となるなど平氏は勢力を強めます。

 

これには、京都の治安維持や興福寺の抵抗に対抗する意味もありました。

 

清盛は太宰大弐(だざいだいに)になり日宋貿易で利益を得るほか、通憲と親戚関係を結ぶことになります。

 

 

②反通憲派

鳥羽法皇から荘園の大半を相続し最大の荘園領主となっていた美福門院は、二条新制派として通憲に二条天皇の即位を求め実現することになりました。

 

これにより、後白河上皇と二条新制派の対立が始まります。

 

後白河上皇は通憲だけに頼ることはできないと考え、藤原信頼を抜擢し要職につけました。

 

信頼は、もともと武蔵陸奥を知行としていたため源氏との関わりが深く源義朝と連携しており、義朝の武力も手に入れることになります。

 

このとき、通憲派、二条新制派、後白河院政派、平氏一門の4グループに分かれることになります。

 

二条新制派と後白河院政派は対立していたものの、通憲派への反発は一致していました。

 

清盛は親戚関係もありましたが、この時点では中立の立場をとります。

 

③三条殿襲撃

1159129日、深夜に信頼らの軍勢は院御所の三条殿を襲撃します。

 

上皇の身柄を確保し周囲に火をかけ矢を射ますが、通憲らはすでに逃亡していました。

 

10日に通憲の4人の子は捕縛されて配流となり、13日には逃亡していた通憲は追撃にあい自害します。

 

清盛は紀伊国で襲撃の事実を知ると17日には京都に戻ります。

 

また、反通憲については意見が一致していた後白河院政派と二条新制派でしたが、通憲が亡くなると二条新制派は後白河院政派と手を結ぶ必要はなくなります。

 

④六波羅合戦

二条新制派が計画していた通り、二条天皇と後白河上皇も内裏を脱出します。

 

翌朝、信頼と義朝らが取り残されて狙われていることに気がつきます。

 

信頼と義朝の追討宣旨(せんじ)が出されると、清盛は官軍として出陣します。

 

清盛は内裏が戦場とならないよう信頼と義朝らを六波羅に追い込み、義朝は六波羅近辺の六条河原で敗れることになります。

 

信頼は通憲殺害と三条殿襲撃の罪で処刑され、義朝は逃亡の途中で殺害されます。

 

義朝の子の頼朝は、処刑されるところを清盛の継母にあたる池禅尼の嘆願により命を取り留めて伊豆蛭島(ひるがしま)に流されました。

 

平治の乱のその後

(三十三間堂 出典:Wikipedia

 

 

清盛は後白河上皇の信任を得ると、蓮華王院(れんげおういん)を造営し、本堂の三十三に千一体の千手観音像を安置しました。

 

上皇への奉仕と武力から、清盛は異例の昇進を遂げ太政大臣となります。

 

また、その子の重盛も高位を与えられ平氏の全盛期を迎えました。

 

まとめ

 平治の乱とは、1159年に藤原信頼が源義朝とともに藤原通憲を自殺に追い込むと、今度は平清盛が信頼を滅ぼし義朝を討ちとった事件のこと。

 事の起こりは、清盛と結ぶ通憲に反感を持つ信頼が、清盛の留守中に兵を挙げて通憲を襲撃したことだった。

 信頼を討った清盛は、武家の棟梁として地位と権力を急速に伸ばす結果となり、貴族社会内部の争いも武士の力が大きく影響することが明らかになった。

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