今回は『無産政党』についてわかりやすく解説していきます。
無産政党とは
「無産者」とは、労働者(当時なら主に農民を指している)の総称になります。
それらの人達から成る政党なので、主に農民の利害のための政党といえます。
現在の社会主義政党の立ち位置にあると言われており、非合法と言われた日本共産党とは違うと言いたかったようです。
しかし、社会主義思想自体取り締まられた時代。治安警察法に触れないために「無産」という言葉を使ったと言われています。
「全国的無産政党」にあたる「労働農民党」「社会大衆党」、分裂期と呼ばれる時期には、地方にいくつもの無産主義者が立ち上げた「地方的無産政党」が30以上ありました。
1920年~1940年代に使われていた「無産政党」は第二次世界大戦後はあまり使用されなくなりました。
無産政党と言えば労働農民党!
労働農民党とは、日本の合法であるきわめて左派と呼ばれる無産政党から分裂した政党のことです。
1926年3月創立。前年12月に結成された農民労働党は即日共産主義とのつながりを指摘され禁止されました。
共産主義を排除し、労働農民党として認められたのですが、時間と共に共産主義思考者が増えてきました。
労働農民党内で、親共産主義と反共産主義が対立。共産主義の中間派と反対派が離脱することになったのです。
分裂後は労働法制定運動などに積極的に加担しています。
無産政党と共産党の違い
おさえておくべきポイントは、無産政党は合法的に結成された政党、共産党は非合法的に結成された政党であるということ。
無産政党でも非合法とされたものもありましたが、合法を目指した点が共産党との最大の違いと言われています。
普通選挙での無産政党の得票数と三一五事件の背景
三一五事件とは、簡単に言うと全国的な共産党員の全国規模の検挙事件のこと。
1928年3月15日、無産政党とは切って離せない田中義一内閣が全国一斉に共産党員とその支持者を一斉検挙しました。
この時検挙された人数はおよそ1500人とされ、うち483人が起訴されました。
同年6月に治安維持法が改正され、最高刑に死刑・無期懲役刑が追加。これにより、無産政党の一部は非合法の日本共産党と合流してしまったのです。
この三一五事件は第一回普通選挙の後に起こりました。
この時期、大正天皇の喪が明け、昭和天皇即位の礼があったのです。田中政権はどうしても即位の礼を成功させなければいけませんでした。
第一回普通選挙では無産政党から8人の当選者が出ました。
田中義一氏は、この人数より得票数に驚いています。無産政党から成る労働農民党には19万以上の票があったのです。
共産党とは違う合法的政党と言っても「天皇反対」の思想が強い無産政党、特に労働農民党。
その思想を支持する者が19万人以上いるという事実が三一五事件で危険な思想の者=天皇反対思想の人々を検挙・逮捕し、治安維持法の最高刑に死刑に引き上げてまでも、放置することはできなかったのです。
ここには、天皇政権の維持の必要性が集約されています。
当時の時代背景から考えてもそれは当然のことともいえるでしょう。
治安維持法
「大正デモクラシー」が発展し、1925年普通選挙法と共に、治安維持法が制定されました。
おさえておくべきポイントは、「天皇制の変革」「私有財産制の否定を目的とした結社とその運動」を禁止するための法律であるということ。
共産党の社会変革運動を取り締まり、だんだんと政府の批判をする言動も取り締まるようになってきました。
結果、天皇制を揺るがす思想のない自由主義者や労働運動までもが取り締まり対象となり弾圧されてしまいました。
勅令として、田中義一内閣は死刑を最高刑にし、軍部への反対運動や戦争反対の動きも厳しく弾圧しました。
手段を選ばない治安維持法は1945年、第二次世界大戦の敗退とともに撤廃されました。
第二次世界大戦後、無産政党の地方政党が合流、1つの政党を結成しました。それが「日本社会党」です。
社会民主党とは
日本初の社会民主党は1901年結成されています。
片山潜、木下尚江、幸徳秋水、安倍磯雄、河上清、西川幸次郎の5人で結成。うち、幸徳秋水以外は4キリスト教徒です。
党則第一条に掲げたのは「我党は社会主義を実行するを以て目的とす」です。社会民主党の党則第一条として、この部分だけでも覚えておきましょう。
具体的に党が掲げた8項がこちら。
8項
・人類同胞主義
・軍備全廃
・階級制度全廃
・土地・資本の公有
・交通機関の公有
・公平な財府分配
・参政権の平等
・教育の公費負担
これを「社会党民主宣言書」と言います。
新聞に取り上げられましたが、二日後には内務大臣より政党として禁止がくだされました。また、掲載新聞の発禁も徹底されたのです。
この思想はのちに、平民社に引き継がれていきました。
大逆事件~幸徳事件~
1908年に施行された刑法73条に記載されている「天皇・皇后・皇太子などを狙って危害を加えようとする罪」を大逆罪と言います。
中でもこの時代で有名な大逆事件の1つに「幸徳事件」があります。
明治天皇の暗殺をくわだてたとして、全国の社会主義者を逮捕、起訴、死刑などに処した事件のことです。
1911年、死刑24名、有期刑2名という大きな判決が下されたのです。
このような時代背景の中、社会民主党はもちろん、無産政党も弾圧の対象にたびたび挙げられてきたというわけです。
まとめ
いくつか出てきた政党をもう一度簡単にまとめます。
・無産政党
戦前の資本家(生産手段を所有するもの)に対する労働者(無産者・生産手段を持たない者)のための合法政党
・日本共産党
そもそもこの頃は非合法であったので政党ですらない
・日本社会党
無産政党が戦後合流してできた政党
・社会民主党
幸徳秋水ら5人が立ち上げ、2日で禁止された政党
社会民主党だけは無産政党とは関係のない立ち位置にあるので最後にしましたが時系列的には社会民主党の大逆事件が先です。
思想的な考えの問題で比較されることが時々あるので書いておきました。
戦前戦後は天皇主義の維持が政治家にとって大事だったため、多くの政党の思想家が罰されるご時世でした。
無産政党の問題ではあまり触れられませんが、どうしてそこまで厳しくしないといけなかったのかも含め、テスト前はチェックしておきましょう。