のちに争う源氏と平氏。

 

しかし、元々この両家の棟梁(とうりょう:一族を支える重要人物のこと)である源義朝と平清盛は協力して乱を鎮圧していました。

 

今回はそんな協力した『保元(ほうげん)の乱』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

保元の乱とは?

(保元・平治合戦図屏風 出典:Wikipedia

 

 

保元の乱とは、平安時代の末期の1156年に起きた崇徳上皇と後白河天皇と藤原摂関家の間で起こった内乱のことです。

 

この内乱によって武士の地位が上昇し、のちに武家社会となる下地が作られていくようになっていきました。

 

保元の乱までのあらすじ【背景や原因】

(鳥羽法皇 出典:Wikipedia

①鳥羽法皇の崩御

保元の乱が起こる前、日本では院政という治天の君と呼ばれた上皇や法皇などが天皇に変わって政治を動かしていくような政治を行なっていました。

 

ちなみに当時の治天の君は鳥羽法皇という人で、この人は崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の代で院政を行なっていました。

 

しかし、院政を行なっていた鳥羽法皇も歳には勝てず1156年に崩御。

 

この直後誰が鳥羽法皇の代わりに院政をするのかということで揉め出していきます。

 

②崇徳上皇と後白河天皇の対立

鳥羽法皇が崩御すると天皇間では崇徳上皇が院政を行って行くように動き始めます。

 

 

(崇徳上皇 出典:Wikipedia)

 

 

この崇徳上皇という人は鳥羽法皇にかなり冷遇されていたそうで鳥羽法皇が崩御した時にはさぞルンルン気分だったことでしょう。

 

「これで自分も鳥羽法皇や白河法皇みたいに院政をすることができる!」こうして崇徳上皇も院政を行なっていく...とは残念ながらありませんでした、この崇徳上皇の野望は当時即位していた後白河天皇の立場によってあっけなく崩されていくようになります。

 

 

(後白河天皇 出典:Wikipedia)

 

 

院政というのはそもそも天皇の父や祖父がやるようなもの。

 

しかし崇徳上皇から見た後白河天皇は弟。つまり院政する立場ではなかったのです。

 

つまり崇徳上皇が院政を行うにはまず後白河天皇をどうにかして退位に追い込まなければならず、これがのちの対立につながっていくようになります。

 

③藤原摂関家での争い

崇徳上皇と後白河天皇が対立している中、その下にいる有力貴族である藤原摂関家でも揉め事が起こり始めます。

 

この頃藤原家はとんでもなく落ち目の時代であり、後三条天皇の代から始まり、白河法皇の院政が始まると政治の実権が失われ始めていました。

 

しかし、鳥羽法皇が崩御すると事態は変わっていきます。

 

当時白河法皇の皇后だったのは藤原忠実の娘ということがあり、どんどん藤原摂関家が巻き返していきます。

 

しかし、こんな頑張らなければいけない時に藤原家の間でも内紛が起こってしまいます。

 

当時関白であった藤原忠通は息子がいないという理由で関白の位を弟であり、左大臣であった藤原頼長に譲ることにします。

 

 

(藤原頼長 出典:Wikipedia)

 

 

しかし、日本史お決まりのパターンがここで発動。なんと関白を譲ると決めた瞬間に忠通に息子が誕生してしまったのです。

 

こうなると事情が変わってしまうのが頼長。このままではせっかく掴みかけた関白が息子に渡ってしまってどうにもならなくなってしまう。父である忠実としても気持ちは一緒です。

 

ということで頼長と忠実は忠通を追放。この間で対立が起きてしまったのです。

 

 

(追放された藤原忠通 出典:Wikipedia)

 

保元の乱の流れ【経過と結果】

(元・平治の乱合戦図屏風 出典:Wikipedia

①両軍の陣営の勢力

保元の乱における崇徳上皇側の要人は藤原頼長を始め源為義、源頼賢、源為朝、平忠正など戦自慢の人ばかり。

 

特に源為朝は人が引けないような弓をいとも簡単に引けてしまう弓の使い手としても知られており、この人がつくことは崇徳上皇側としては大きなアドバンテージとなります。

 

一方の後白河天皇側の要人は藤原忠通を始め、藤原信西、平清盛、源義朝など当時の源氏と平氏のリーダーばかり。

 

特に平清盛はこの当時日の出を見るぐらいのスピード出世を果たしており、有望株となっています。

 

②奇襲攻撃

こうして始まることになった保元の乱。しかし、この戦は最初から勝敗は決まっているようなものでした。

 

そもそも当時の天皇は後白河天皇。さらに院政も行われていないので政治の実権も天皇側にあります。

 

さらに源氏と平氏の差も酷いものでいくら崇徳上皇の方に戦自慢の人が集まっても後白河天皇の方に武士の棟梁2人がいればお話になりません。こうなると崇徳上皇が一発逆転する方法はただ一つしかありません。

 

決死の覚悟を持って後白河天皇陣営へ奇襲攻撃することでした。

 

もしここで奇襲攻撃ができたら崇徳上皇側の方が有利となります。

 

もちろん戦自慢の人である源為朝はこのことを十分理解していたため、藤原頼長に対してこの奇襲案を提案しますが、頼長は「皇族間の戦いで奇襲攻撃という卑怯な手段を取るべきではない」とこの提案を拒否。

 

源為朝は「あっちは武士の棟梁の義朝と平清盛がいるのだぞ!絶対に奇襲を仕掛けてくる!」と懸命に説得しますが、頼長の気持ちは変わらず為朝は激怒して会議の場から離れたと言われています。

 

③意外とあっさり終わった保元の乱

源為朝は絶対に後白河天皇側から奇襲が来ると予測していましたが、この予測は大当たり。

 

崇徳上皇がいる白河上殿を奇襲攻撃し、あっさり崇徳上皇軍を壊滅に追い込みます。

 

こうして保元の乱は盛大な背景があったにもかかわらず、わずか1日で終結するなんとも悲しい結果で後白河天皇の勝利で終わりました。

 

保元の乱のその後

(讃岐で崩御し、怨霊になる瞬間を描いた画 出典:Wikipedia)

①崇徳上皇の配流

負けてしまった崇徳上皇は仁和寺に逃亡して身を潜めますが、あっさりバレてしまい即逮捕。

 

崇徳上皇は反乱を起こした罪で讃岐に流されることになります。

 

ちなみに崇徳上皇はその後讃岐で天狗となったともいわれていますが、真相は不明です。

 

②藤原頼長の死亡

崇徳上皇側についた藤原頼長はなんとか京都を脱出して父の忠実がいる奈良へと向かいますが、さすがの忠実も戦に負けてしまった人を受け入れるわけにもいかず、最愛の息子にもかかわらず忠実は頼長を受け入れることはありませんでした。

 

こうして頼りの綱をなくした頼長はその後保元の乱の傷が元で死亡。藤原摂関家はその後再び没落していきます。

 

③権力を固める藤原信西と平治の乱

こうして後白河天皇側の勝利に終わった保元の乱。

 

この結果一番権力を握ったのは源氏でもなく、平氏でもなく、さらには後白河天皇でもなく、藤原信西という人でした。

 

この藤原信西という人は藤原氏とは言っても奈良時代に没落した藤原南家出身の人でかねてより藤原摂関家のことを嫌っていました。

 

そのため信西が権力を握ると自分のことが好きな人材をどんどん出世させていきます。

 

しかしその度がかなり過ぎており、信西は自分の親族でもあった平氏をどんどん出世していくのに対して、同じ働きを見せた源氏を冷遇していきます。

 

この差がのちに源氏と平氏の対立に繋がっていき、そして保元の乱以上の内乱である平治の乱が起きることになるのです。

 

まとめ

 保元の乱は崇徳上皇と後白河天皇の間で起きた内乱のこと。

 保元の乱の裏側には崇徳上皇が院政をしたかったという思惑があった。

 崇徳上皇には源為朝などの戦が得意な武士がいて、その一方で後白河天皇には源義朝や平清盛などの武家の棟梁がついた。

 保元の乱は後白河天皇の奇襲攻撃によって勝利を収め、崇徳上皇は讃岐に流された。

 戦後は藤原信西が権力を握り、戦後処理で源氏と平氏のとの差が生まれこれが平治の乱につながっていった。

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