【貫高制と石高制の違い】わかりやすく解説!!共通点や移行理由・換算について

 

実は貫高制と石高制(こくだかせい)の違いや関係性は、今でも専門家の間で議論される難しい問題です。

 

今回は、そんな『貫高制と石高制の共通点や違い』についてわかりやすく解説していきます。

 

貫高制と石高制の違い

 

 

まず違いについてですが、それぞれ定義はこうなっています。

それぞれの違い

貫高制・・・室町時代に換算した年貢収納量により所領の広さを示したもの。

石高制・・・主に江戸時代玄米収穫高を基準とした土地生産高の表示法。

 

どちらも土地の面積表示に関係するものですが、重要な違いは貫高制は銭での換算、石高制は玄米での換算だということと、時代の違い、そして単位の基準となるものの違いです。

 

貫高制は貢納高(こうのうだか)で、石高制は収穫高を基準にしています。

 

ここだけ説明してもピンとこない人も多いと思います。では、貫高制から順に、どういう経緯で導入されたのか見ていきましょう。

 

貫高制について詳しく

①経緯と概要

貫高制は鎌倉時代末期から徐々に取り入れられ、戦国時代には各国の大名がそれぞれ貫高制を導入しました。

 

貫高制が導入されたのは、貨幣経済の進展が大きな理由です。鎌倉時代末期から室町時代になると、勘合貿易などの影響もあり、中国から多くの銭が流入してきます。

 

これにより、農民も年貢や公事、夫役を貨幣で納入することが多くなりました。そんな社会状況に対して、銭の年貢納入量で土地の広さを表すようになりました。これが貫高制です。

 

貫高制は主に関東地方で行われ、具体的には後北条氏・武田氏などがこの制度を採用しました。地域によって異なりますが、百姓の年貢・諸役負担、家臣の知行高、軍役奉公の人数等の基準もこの貫高制で示されました。

 

②貫高制の問題点

⑴ 基準の違い

貫高制は、各国の領主や大名が独自で基準を作ったものだったので、地域によってばらつきがありました。

 

貫高制は、あくまで納められた年貢の量を元にして土地の広さを決めています。つまり、この「年貢の量=土地の広さ」の基準が違ったわけです。

 

例えば、こっちの国では1貫=1反だとしても、あっちの国では1貫=2反だったりするのです。実際にどのくらい違ったのかは、現在も研究されている部分なので詳しくは言いませんが、とにかく、国ごとに土地の広さの基準が違ったというのは明確です。

 

また、貫高制は年貢収納高によって土地の面積を示しているといいましたが、検地などの実地調査によって決定されたケースは少ないです。

 

つまり、実際は大名と国人領主の間の力関係によって定められていた場合が多いのです。

 

同じ面積の所領を収めている領主であっても、大名との力関係によって、年貢の収納量つまり貫高は多かったり少なかったりしたわけです。

 

⑵ 貨幣経済との親和性

もう一つの問題として、同価値の貨幣が広く流通していることが前提条件としてあることです。

 

貨幣経済が当たり前な現代に生きる私たちは想像しづらい部分ですが、当時の日本では貨幣の生産はほぼ行われていませんでした。

 

あったとしても、私的に製造方法で作られた私鋳銭などしかありませんでしたし、こういった銭は中国から輸入した銭よりも粗悪な銭として嫌われていました。

 

悪銭を嫌う行為を撰銭といいますが、やがてこの撰銭が多く行われるようになり、貨幣経済にも影響が出てきます。

 

室町時代に行われた勘合貿易は、倭寇などの影響により次第に取り締まりが厳しくなり、やがて貿易自体が縮小していきます。そうすると当然、日本の市場に流通する貨幣も少なくなっていきます。

 

 

そこに撰銭が加わり、さらに流通する銭は減少していきました。年貢も結局米による収納がまた増えてきます。

 

こういった経緯により、貨幣を前提とした貫高制は行き詰まってしまいます。

 

石高制について詳しく

①石高制の導入と内容

貨幣経済の衰退により、貫高制が行き詰ってしまうわけですが、このような経済状況を背景に実施されたのが、豊臣秀吉の太閤検地です。

 

 

太閤検地は、土地の面積表示を新しい基準のもとに定めた町(ちょう)・段(たん)・畝(せ)・歩(ぶ)に統一しました。これ以前には6尺5寸(約197センチ)四方を1歩とし、360歩を1段としたのに対し、太閤検地では6尺3寸(約191センチ)四方を1歩とし、300歩を1段としました。

 

そして、これまで様々であった枡(ます)の容量も京枡(きょうます)に統一し、村ごとに田畑・屋敷地の面積・等級を調査してその石高(村高)を定めました。

 

その決定方法は、田畑に上・中・下・下々(げげ)などの等級をつけ、たとえば上田1段は1石5斗、中田は1石3斗というように、その生産力を米で表しました。その1段当たりの生産力を石盛といい、石盛に面積を乗じて得られた量を石高といいます。

 

この結果、全国の土地の生産力が米の量で換算された石高制が確立しました。

 

また太閤検地は、荘園制のもとで1つの土地に何人もの権利が重なりあっていた状態を整理し、検地帳には実際に耕作している農民の田畑と屋敷地を登録しました(一地一作人)。

 

これらの制度により、農民は自分の田畑の所有権を法的に認められることになりましたが、そのかわりに自分の持ち分の石高に応じた年貢などの負担を義務付けられることになりました。

 

秀吉は天下統一を終えた1591(天正19)年、全国の大名に対し、その領国の検地帳(御前帳)と国絵図の提出を命じました。これにより、すべての大名の石高が正式に定まり、大名は支配する領地の石高に見合った軍役を奉仕する体制が出来上がりました。

 

②石高制の利点

⑴ 大名の加封・減封・転封が容易に

石高制は豊臣秀吉の時代に整いますが、その後の江戸幕府もこの石高制を採用し、より制度化していきます。

 

江戸幕府において、大名の領域は面積でなく、石高で表示されました。場所も指定はされますが、石高に応じて飛地(城のある領地から離れた土地)もつくります。

 

つまり、大名領は石高であるため、加封・減封も可能であり、転封も容易であったのです。大名の義務も、石高に応じて定められ、幕府の役職につくのも石高を基準としました。

 

⑵ 家臣や百姓への支配

家臣や百姓の持地も石高を中心に登録されています。

 

家臣は大名の手を通じて収納された米を与えられるため、勝手に年貢を徴収することはできません。

 

百姓も、持地の移動はあるものの、石高は変わらず、年貢量は石高に年貢率をかけて算出されました。

 

⑶ 全国的な価値基準

石高は、米の量で表される数値ですが、米を作っていない田畑も石高で換算されたため、貫高制と違い、全国規模での相互比較が可能となりました。

 

そのため、石高は江戸幕府においては身分を示す基準にもなりました。

 

例えば、将軍と主従関係を結んだ1万石以上の武士を大名といい、1万石未満は旗本・御家人と区別されました。石高は近世において、非常に重要な単位となり、支配体制を確立する要因の一つになったといえます。

 

このように、石高制は貫高制にはない利点を多く持っていました。

 

③石高制の問題点

⑴ 実際の生産高と表面上の生産高との乖離

しかしながら、この石高制にも問題点はあります。

 

石高は米の収穫量を示すので、時とともに生産力があがったり、新しく土地を開発したりすれば、同じ土地でも石高は変化するはずです。

 

そのため、時には検地のやり直しもあったのですが、大名としての石高の変化は身分の変化をもたらし、体制の不安定化を早めるので、表高と裏高などの二重の高をもつ大名が現れます。

 

その上、いちいち石高を変える検地も困難なので、新開地以外は、はじめの検地石高が幕末まで続くことがほとんどでした。

 

ここに石高制の弱点があります。実際の農業生産量と年貢収納量との差がいずれ出てきてしまうのです。つまり、農業の生産効率があがって、同じ土地でたくさん米がとれるようになっても、それが年貢増収には直接結びつかないということです。

 

⑵ 米価の上下による財政難

米を貨幣に換金することはこの石高制の弱点をさらに加速させます。

 

米の生産量が増加すると、必然的に米の値段は下がります。年貢で徴収する米の量はずっと変わらないので、値段が下がった米を貨幣に両替するともらえる貨幣はどんどん少なくなっていきます。これが、藩の財政難を引き起こすことになるのです。

 

これは藩だけでなく、年貢米を俸禄としてもらう武士たちも同様です。石高制は、一時は画期的な策として見ることができますが、長期的にみると領主が財政難に陥ることが必然的であったのです。

 

最終的に江戸幕府は何度も財政難に陥り、1873(明治6)年からの地租改正により地租が金納となり、石高制は廃止になります。

 

 

まとめ

 貫高制は年貢の収納高で所領の広さを示したものであり、銭で換算された。

 貫高制は領主によってその基準が異なること、貨幣流通が衰退すると行えないという問題点がある。

 石高制は土地の収穫高を示すものであり、玄米で換算された。

 石高制は全国的な相互比較が可能になったが、実際の生産高と上辺の生産高との乖離が発生し、米価の上下によって財政が不安定になるという問題点がある。