「中先代の乱」は鎌倉~室町にかけての時代に頻発していた武装蜂起の一つではありますが、その後の情勢を変えるきっかけを作った乱でもあります。

 

わりとさらっと習った感のある鎌倉幕府滅亡~室町幕府誕生周辺の歴史。

 

人間関係など少々ややこしいですが・・・今回はこの『中先代の乱(なかせんだいのらん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

中先代の乱とは?

 

 

中先代の乱とは、鎌倉幕府末期の14代執権北条高時の遺児である北条時行(ときゆき)御内人(みうちびと:北条家本家である得宗家に仕えた武士)である諏訪頼重(すわよりしげ)に支持されて鎌倉幕府再興のために挙兵した事件のことです。

 

鎌倉期の北条氏の世を「先代(せんだい)、後の室町期の足利氏の世を「当代(とうだい)と呼ぶことから、その間に鎌倉を支配したということで「中先代の乱」と呼ばれています。

 

ここからは乱がおこるまでの背景や乱の経過・その後の影響について詳しく解説していきます。

 

鎌倉幕府滅亡後の混乱

①建武の新政

鎌倉幕府の滅亡後、後醍醐天皇は公家を中心とした新しい政治である【建武の新政】を始め、武士の政治を否定し、公家中心の政策をとっていくようになります。

 

 

鎌倉には息子である成良親王(なりよししんのう)を長とし、尊氏の弟足利直義(ただよし)が執権としてこれを補佐するようにして鎌倉将軍府を設置します。

 

しかしながら、この公家中心の政治は武家には支持されず、各地で北条残党などによる蜂起が頻発していました。

 

②後醍醐天皇と護良親王と足利尊氏

新政に対する武士の不満は、倒幕の功労者であり、武家の名門である足利尊氏へと集約されていきます。

 

(足利尊氏 出典:Wikipedia

 

 

後醍醐天皇の皇子である大塔宮(護良親王)は特にこれを警戒し、鎌倉から奪った力を再び武士に渡さないよう自分を征夷大将軍として、軍事力も公家が掌握しておいた方がよいと考えたようです。

 

(護良親王 出典:Wikipedia)

 

 

ところが、後醍醐天皇は天皇である自分以外が権力や軍事力を持つことを否定したために、この護良親王とも対立をしてしまいます。親子といえども中々難しいものですね。

 

さらに護良親王の警戒に気づき身の危険を感じていた尊氏は、先手をうってきたのです。

 

尊氏は後醍醐天皇の寵姫(ちょうき)であった阿野廉子(あのれんし)と手を組み、『護良親王がクーデターを企んでいる』と讒言を行わせます。

 

そしてこれをすっかり信じてしまった天皇もどうかとは思いますが、その頃には親子喧嘩も泥沼化していたのか、護良親王は捕えられ、鎌倉の土牢に幽閉されてしまうのです。

 

中先代の乱の勃発

①乱のきっかけ

新政の混乱の中、1335年6月、北条高時の弟である北条泰家(やすいえ)と、幕府と朝廷の調停役を務めていた一族の公家である西園寺公宗(さいおんじきんむね)が後醍醐天皇暗殺を企て、それが発覚してしまいます。

 

公宗は誅殺されてしまいますが、泰家は逃れて各地の北条残党に挙兵を呼びかけるのです。

 

②北条時行の支持

信濃国に潜伏していた北条高時の次男である時行ですが、当時は10歳前後なので、御内人諏訪頼重を中心に彼を支持し、泰家の呼びかけに答え翌月挙兵をします。

 

これに応じて北陸でも北条一族の名越時兼(なごえときかね)も挙兵します。

 

ちなみに、高時の長男は鎌倉幕府滅亡時に叔父に託され逃げるのですが、その叔父に裏切られ捕えられた挙句、9歳くらいで殺害されてしまいました。

 

得宗家の直系としては時行が唯一の生き残りだったのですね。

 

③鎌倉の奪還

時行の軍勢は信濃国の守護を破り、女影原(おなかげはら;埼玉県日高市)、小手指ケ原(こてさしがはら:所沢市)府中(東京都府中市)で足利軍と戦い、井出沢(いでのさわ:東京都町田市)では足利直義軍を撃破して725日に鎌倉を奪還しました。

 

幕府滅亡から約2年ぶりの鎌倉への帰郷でした。

 

当初、時行の軍は京都に攻めてくると考えられていたため、鎌倉への連絡が遅れてしまい、直義の対応が色々後手になってしまったことが鎌倉陥落につながったと言われています。

 

④護良親王の最期

時行の軍に敗北し、鎌倉を追われる形になった際、足利直義は密かに家臣の淵辺義博(ふちべよしひろ)に命じて護良親王を殺害します。

 

(護良親王を殺害する淵辺義博)

 

 

鎌倉に入った北条氏に、護良親王を将軍として担がせないようする為と言われていますが、一部では後醍醐天皇からの密命もあったと言われてもいます。

 

いずれにせよ倒幕の功労者でもあり、新政でも天皇を支えようとしていた護良親王は非常に悲しい最期を遂げることになったのでした。

 

武芸に秀でたこの皇子を後醍醐天皇が重用していたら、少し時代は変わっていたかもしれませんね。

 

⑤尊氏の参戦

直義の報告を受け、兄である尊氏は官軍として戦うために「総追捕使」「征夷大将軍」の役職を後醍醐天皇に要請しますが、拒否されてしまいます。

 

しかし、直義軍への援助を行いたい尊氏は許可のないままに出陣してしまうのです。

 

この尊氏の軍が参戦することで、橋本(静岡県浜名郡)、箱根、相模川などの戦いに敗れていった時行軍は8月19日、鎌倉奪還からわずか20日あまりで鎌倉を再び明け渡すことになってしまうのでした。このことから【二十日先代の乱】とも呼ばれています。

 

結果、諏訪頼重は自害し、主である時行を逃がすことで北条としての再起を図ることになるのですが、一説によると40名近くで自害した際に、顔が分からないよう削ぎ落しておき、時行が死んだと思わせたそうです。

 

敗者の将としてあまり良くは書かれてない北条氏ですが、幕府滅亡時の六波羅探題北方の北条仲時主従の集団自決といい、一門主従の絆はあ強かったのかもしれませんね。

 

後に北条時行は南北朝時代には南朝側に与して足利と戦ったりするのですが、最終的には足利に捕えられ、鎌倉にて処刑されたと伝えられています。

 

中先代の乱の影響

 

 

中先代の乱自体は、鎌倉を取り戻して終了、という感じではありましたが、この後さらなる戦いが待っていたのです。

 

①後醍醐天皇と足利尊氏

天皇の許可なく参戦した尊氏に対して、後醍醐天皇は疑念を抱きます。

 

尊氏個人としては、名前の一部「尊」を後醍醐天皇からもらう位でしたので、天皇への叛意はなかったかもしれません。

 

しかし、時行軍を追放し鎌倉入りした尊氏は9月には乱の鎮圧に向かった武士に恩賞を与えたりします。

 

また、再三にわたり天皇から帰京命令が出るのですが、これは流石に身の危険を察した直義や家臣が止めたのではないかとも推測されます。

 

結果命令を無視したとして、さらなる天皇との軋轢を生むこととなっていくのです。

 

②新たなる動乱へ

鎌倉に居座ることを明らかにした尊氏に対し、後醍醐天皇はついに怒り心頭なのか、朝敵扱いをすることにしました。

 

新田義貞に尊氏追討を命じたのです。

 

ここにきて足利氏の建武政権との離反は確実なものとなり、尊氏側は光厳天皇を擁することでこの後の南北朝動乱の時代へと繋がっていくのです。

 

中先代の乱の語呂合わせ

 

1335年(いざ再興)!中先代の乱

 

と覚えましょう!

 

まとめ

✔ 中先代の乱は北条高時の遺児時行が幕府再興の為に起こした乱のこと。

✔ 鎌倉幕府滅亡後の「建武の新政」は公家中心で武家の支持は得られなかった。

✔ 新政に対する武士の不満が足利家へ集まることで足利家は危険視されていった。

✔ 乱の混乱に乗じて倒幕の功労者であった護良親王が殺害されてしまった。

✔ 中先代の乱後の後醍醐天皇と足利尊氏の対立がその後の南北朝動乱につながった。

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