天下統一を果たすべく、下克上の戦国の世を駆け抜けた織田信長にとって最も誤算となった戦が金ヶ崎の戦いです。

 

時は信じるか裏切るかの戦国時代、その時代において同盟相手は本当に重用な存在でした。

 

信長にとっても浅井家は、その存在のはずでした。しかし、人間と言うのは複雑な物で時として利害関係、心情によって移ろう事もあるのです。

 

今回は、そんな「金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)を簡単にわかりやすく解説していきます!

 

金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)とは

(織田信長と朝倉義景 出典:Wikipedia)

 

1570年に発生した金ヶ崎の戦いでは、織田信長、徳川家康連合軍は、越前を治める朝倉義景を攻めていました。

 

当初は、有利に戦っていた信長軍でしたが、北近江を治める浅井長政の裏切りにより状況は一変します。

 

本来長政には、信長の妹お市の方が嫁いでおり、織田家とは同盟を結んでいたため、この裏切りは完全に想定外でした。

 

金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)の背景

朝倉家との不和

当時の織田信長は、足利義昭を足利幕府15代将軍に就任させ、名実ともに足利幕府の守護者となり、上洛を果たしたほどでした。

 

天下統一を目指す信長にとって、明らかにほかの戦国大名よりも抜きんでた結果です。

 

上洛を果たした信長は、当時越前を支配していた朝倉義景にも上洛要請を出し、言わば信長に屈服するように命じていました。

 

時の流れを読めば、当時勢いに乗る信長に一応はこびえつらい表面上でも恭順すべきなのでしょうが、朝倉家はこれを何度も突っぱねており、結果信長が挙兵する口実となったのでした。

 

ただ、朝倉家家中でも意見は分かれていたと言いますが、残念ながら遊び人の当主義景には、ビシッと決断する力がなかったようです。

 

浅井家の決断

信長に攻め混まれることとなった朝倉家でしたが、信長と朝倉家両方から応援要請を受けていたのが浅井家でした。

 

浅井家の当主「浅井長政」は、織田家と同盟を結び、信長の妹「お市の方」を妻として迎えていました。

 

(浅井長政 出典:Wikipedia)

 

その際、信長から一時取り長政と名を改名しており、長政自身もこの同盟に力を入れていた事が分かります。

 

信長自身もこの同盟を大変喜び、当時婚家側負担するべき婚礼費用を織田家が全額負担するほどでした。

 

しかし、当初からこの婚姻には暗雲が立ち込めていました。

 

元々朝倉家と浅井家は昔からの盟友の仲で、特に長政の父久政は朝倉贔屓として知られており、新勢力に過ぎない信長のことを毛嫌いしていました。

 

その信長はと言うと、朝倉家とかねてから不仲でした。そのため、同盟時に朝倉家を攻めないと言う約束を結び付けていたにも関わらず、信長はその約束を破った形となります。

 

金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)のはじまりと経過

①金ヶ崎の戦い勃発

かねてより朝倉家に上洛要請を出していたにも関わらず、それに応じる気のない朝倉家に業を煮やした信長と家康連合軍は、越前に進軍します。

 

そこで戦場となったのが、金ヶ崎城でした。

 

当時城を守っていたのは、朝倉家一門衆の筆頭であった朝倉景垣でした。

 

しかし、この時城を守っていたのはたったの4500に対し、信長軍は3万とも言われており圧倒的な人数差の前では、もはや為す術はなく、早々に景垣は降伏を申し出たのでした。

 

この時、援軍が向かっていたとされますが、すでに城が包囲されており、あまりにも援軍の到着は遅過ぎました。

 

この遅延の背景には、朝倉家内の一門衆の序列争いによる嫌がらせでもあったと言われており、信長と戦をしている最中でありながら、一門内でも揉めていた事が分かります。

 

要するに城攻略自体は、信長が勝利していた訳ですね!

 

浅井家の裏切り

そんな意気揚々の信長軍にもたらされたのが、浅井家の裏切りでした。

 

浅井家の治める北近江から進軍されると信長軍は、朝倉軍と共に挟み撃ちされる事となり逃げ場がなくなり窮地に陥ります。

 

この戦においても浅井家は、両方から応援要請を貰っており、本来であれば同盟国の信長を取るべきでした。

 

しかし、朝倉家同様浅井家も意見は、真っ二つです。かねてからの昔馴染みである朝倉家を取るか、妻の実家である織田家を取るか…

 

特に父「久政」始め、信長を毛嫌いする旧臣達は、朝倉支持を呼び掛けます。

 

なぜなら本来朝倉家を攻めないと言う最初の約束を破ったのは、信長です。約束破りの新参者の信長など信用出来ないと言うことです。

 

最後まで長政も悩んだ結果、信義を取り結局盟友の朝倉家を選んだのでした。

 

共に歩んだ時間の長さには、敵わなかったのですね。

 

金ヶ崎の退き口

長政に挟み撃ちにされる事となった信長は、一刻も早く退散せねばなりません。

 

ここでは、豊臣秀吉と明智光秀が殿を務める事となります。一説には、この殿に秀吉が立候補したとも言われています。

 

殿は大将を無事帰還させるべく、敵の前線に立ちながら上手く攻撃を交わし、かつ自分も無事に生還せねばならないと言う重要ポジションです。

 

もちろん最も命を落とす危険も有る訳ですが、その分成功すれば武将としての名をあげられ、最高の恩賞も貰える機会でした。

 

もう一つの信長の懸念事項は、朽木領通過でした。朽木家は、浅井家と昵懇の家ですから、早々易々と通してくれるかは分かりません。

 

そこで朽木元綱の元へ交渉にあたる事に立候補したのが松永久秀でした。

 

 

正直織田家中でも信用度の低い彼でしたが、大変弁の立つ男として知られ、信長にその任を任されます。

 

交渉内容は未だに謎ですが、結果として交渉は、成功して無事通過すると何とか京へ舞い戻る信長でした。

 

この時信長の元にいたのは10騎程と言われていますから、命からがら逃げ切って来た事が分かります。

 

朝倉家滅亡へ

何とか逃げ切った信長は、体勢を整え再び出陣すると姉川で再び対峙、信長家康連合軍に対し朝倉浅井連合軍が迎え打つのでした。これが俗に言う姉川の戦いです。

 

 

人数的には、五分五分と言った戦況ながら、徳川隊の攻めによって敗走が始まり、朝倉浅井連合軍は1000近い死者を出す事となりました。

 

また、この戦では朝倉・浅井共に一門衆並びに重臣達が討ち死にしてしまい、戦力低下を招きました。

 

その後義景は、自ら出陣して信長軍を迎え打つも元々遊興にはべり、半ば政務を放棄していた義景の命を素直に聞いてくれる家臣は、もはや残っていませんでした。

 

一門である朝倉義鏡にすら出陣を拒否される始末で、義景本人が裸の王様状態でした。

 

同盟相手である武田信玄にも応援要請を出しておきながら、戦意喪失と積雪で兵を撤退させる様で、信玄をぶち切れさせた挙げ句、信玄が病死した事でもはや同盟もあてになりません。

 

結局、一乗谷に逃げ延びた義景でしたが、最後には自害して果て、朝倉家は滅亡するのでした。

 

浅井家滅亡へ

朝倉家が滅亡した今信長の矛先は、浅井家に向けられます。

 

長政は、居城小谷城に立て籠り籠城戦に持ち混み交戦するも、疲弊した兵力と人数差では歯が立たちませんでした。

 

嫡男「万福丸」を逃がすと、正室お市の方とお市の方、所生の三人の娘達は、城から出され織田家に返還されました。

 

父「久政」や弟「政元」も自害し、長政本人も自害すると、小谷城は落城して万福丸も捕らえられると処刑され、ここで浅井家も滅亡したのでした。

 

信長は、長政を相当かっていたと言われていますから、もし長政が信長を選んでいたら、浅井家は縁戚としてきっと華々しく活躍していたでしょう。

 

戦国の世とは、無情な物です。

 

金ヶ崎の退き口(金ヶ崎の戦い)のその後

 

信長は、朝倉家と浅井家を滅亡させ、北近江越前と領地拡大に成功します。

 

また、浅井攻めでは、功労者となった秀吉は、小谷城の跡地に長浜城を新設してとうとう一国一城の主へと成り上がるのでした。

 

織田家に引き取られたお市の方と三人の姫達は、信長の庇護下で養育され、元々信長がお市の方を気に入っていたとされていた事から、何不自由の無い暮らしを送っていました。

 

しかし、最大の庇護者信長が亡くなると状況は、一変通称浅井三姉妹と言われた姫達も運命に翻弄されていくのでした。

 

まとめ

まとめ

 

✔ 権勢を強めつつあった信長に最後迄頭を下げなかった朝倉家。

 

✔ 信長に攻められ金ヶ崎城を失う。

 

✔ 浅井家の裏切りにより信長は、窮地に陥り命からがら逃げ帰る。

 

✔ 怒った信長は、再び攻め姉川の戦いで対峙し朝倉家と浅井家は、総崩れ。

 

✔ 一乗谷に逃げた義景だが最後は、自害して果てる。

 

✔ 長政も最後は、居城と共に自害して果てる。

 

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