明治維新後の日本には、不平士族と呼ばれる勢力が存在しました。

 

明治政府への不満を抱えた士族たちのことです。

 

やがて不平士族の不満は爆発し、明治政府への反乱が多発。この一連の反乱はその後の明治政府のあり方をも変えていきました。

 

今回は、そんな『不平士族』が生まれた背景、一連の反乱、そして反乱が明治政府に残した影響について、わかりやすく解説します。

 

不平士族とは?

(不平士族の反乱「秋月の乱」 出典:Wikipedia

 

 

不平士族というのは、明治初期、明治政府やその政策に対して不満を抱えた士族たちのことをいいます。

 

士族というのは要するに武士ですね。

 

近代化を推し進める明治政府は、士族の特権を次々に剥奪していきました。その流れに抵抗したのが不平士族というわけです。

 

やがて各地の不平士族は反乱をおこし、明治政府と激突することになります。

 

不平士族が生まれた背景

(明治天皇の行幸 出典:Wikipedia)

 

 

不平士族が生まれるにいたった背景を詳しく見ていきましょう。

 

①明治維新で近代国家が生まれた

江戸時代末期、西洋列強の外圧から国を守るべく、日本では幕府を倒す革命がなされました。これを明治維新といいます。

 

 

中心を担ったのは薩摩と長州の士族たちです。

 

西洋に対抗するためには近代国家を作らないといけませんから、明治政府は大急ぎで国の形を変えていきます。政治、経済、法律と、あらゆる分野で国の仕組みを根本的に見直す必要にせまられたのです。

 

士族は江戸時代、さまざまな特権を与えられたエリート層でしたが、近代国家の運営にはこのような旧支配者層は必要とされませんでした。

 

そして、明治政府は情け容赦なく、士族の解体を実行していきます。

 

②士族の特権のはく奪

士族の解体といっても、明治維新の直後にいきなりすべての特権が奪われたわけではありません。

 

最初のうちは年金のようなものを受け取って、生活が保障されていました。このお金のことを秩禄といいます。

 

しかし近代国家の運営にはたくさんのお金が必要となりますから、明治政府に金銭的な余裕はありません。

 

そこで政府は1876年、秩禄の支給を打ち切ります(秩禄処分)

 

 

これによってほとんどの士族が没落し、一気に下層民になってしまったのです。

 

さらに廃刀令という法令も重要です。

 

 

これは、外を出歩くときに刀を差していてはいけないという命令です。

 

その狙いは士族の武装解除にあります。士族は刀に大きなプライドをもっていますから、この法令が彼らに与えた影響は多大なものがありました。

 

秩禄処分と廃刀令を受け、士族たちのあいだにあった不満がさらに高まっていきます。

 

不平士族の反乱

 

やがて不平士族の不満は爆発し、ついに明治政府への反乱が起こるようになります。一連の反乱を順番に見ていきましょう。

 

①佐賀の乱

まずは明治7年に起こった佐賀の乱。リーダーは江藤新平です。

 

江藤はもともと明治政府で司法卿を務めていたエリートでしたが、内紛の末に故郷の佐賀に帰ってしまいます。そこで不平士族たちに担がれ、佐賀の乱を引き起こしたのです。

 

しかしこの反乱は明治政府により鎮圧され、江藤は明治政府のトップ大久保利通によって処刑されてしまいました。

 

 

②神風連の乱

明治9年には熊本県で神風連の乱が起きます。

 

これは敬神党と呼ばれる士族のグループが、廃刀令に反発して起こした反乱です。

 

敬神党の反対者たちが彼らのことを神風連と呼んだため、この反乱は神風連の乱の名前で知られるようになりました。

 

政府軍と激闘を繰り広げますが、最終的には敗北します。

 

 

③秋月の乱

同じく明治9年、今度は福岡県で秋月の乱が起こります。

 

神風連の乱から刺激された士族たちが引き起こした反乱ですが、こちらも政府により鎮圧されます。

 

 

④萩の乱

またしても明治9年、山口県で萩の乱が起こります。

 

神風連の乱と秋月の乱に呼応して起こされた反乱です。

 

この萩の乱は、前原一誠という長州藩の大物が引き起こした点がとくに重要、この反乱も最終的には政府軍によって鎮圧されました。

 

 

⑤西南戦争

こうした一連の反乱に呼応して、不平士族の不満爆発はついにクライマックスを迎えます。

 

それが明治10年の西南戦争でした。

 

 

リーダーは薩摩藩の西郷隆盛です。西南戦争については少し詳しく見ていきましょう。

 

士族反乱のクライマックス「西南戦争」

(西郷隆盛とその将兵たち 出典:Wikipedia

①西郷隆盛と征韓論問題

西郷は明治維新の中心人物でした。

 

江戸幕府を倒し新しい体制を敷くことができたのは、西郷の影響力によるところが大きかったのです。

 

しかし、後になると西郷は征韓論問題で大久保利通と対立し、明治新政府は分裂してしまいます。

 

 

征韓論問題とはなんでしょうか?

 

当時、朝鮮政府は、外交の慣例を破った明治政府からの国交開始の呼びかけを拒否していました。

 

これを受け西郷は、武力による強引な国交樹立を主張。大久保は西郷に反対し、まずは国内の改革を完了させることが大事だと主張しました。

 

二人の溝は埋まらず、西郷は新政府を離れて故郷の薩摩に帰ってしまいます。

 

これを明治6年の政変といいます。

 

 

②西南戦争の勃発

その西郷が薩摩の不平士族らに担がれ、明治政府を相手に反乱を起こしたのです。

 

西南戦争という名前がついていることからも明らかなように、西郷軍と明治政府の激突はただの小規模な反乱とその鎮圧ではなく、大規模な戦争そのものでした。

 

2019年時点では、この西南戦争が日本史上最大にして最後の内戦です。

 

明治政府側の軍隊は、ほとんどが徴兵制によって集められた民衆です。

 

一方、薩摩軍は軍事のプロともいうべき士族たちによって構成されています。

 

ふつうに考えたら薩摩軍のほうが強そうですが、明治政府は兵器と物量で圧倒し、多大な死傷者を出しながらもなんとか薩摩軍を撃破しました。

 

反乱の鎮圧が明治政府に与えた影響

 

西南戦争にいたる一連の反乱を鎮圧することで、明治政府にも変化が見られました。

 

戦闘を繰り返しそれに勝利していくことで、権力が強化されていったのです。どういうことでしょうか?

 

①明治政府の軍隊が強化された

先述したように、明治政府軍の多くは徴兵制によって集められた民衆です。

 

彼らは軍事の素人なわけで、最初はたいした力をもちませんでした。

 

しかし、この兵隊たちが反乱を鎮圧し続けるうちに強くなり、近代的な軍事力を担えるまでに成長するのです。

 

またこれら一般の兵隊を指揮した政府軍の指揮官たちも、戦闘を繰り返すうちに能力を向上させていきました。

 

ここで徴兵を指揮する実戦経験を積んだ指揮官たちが、後の日清戦争日露戦争で活躍することになります。

 

 

②明治政府の権力も強化された

大久保利通が率いる明治政府そのものの権力も、強大なものとなりました。

 

各地に巨大な反政府勢力が存在していた維新直後とは打って変わり、西南戦争に勝利をおさめた明治政府は、他に並ぶもののない圧倒的な権力を手にしたのです。

 

こうして大久保が、そして大久保の後を継ぐ伊藤博文や山県有朋が、明治という国家を巨大な近代国家に仕立て上げていくのです。

 

まとめ

 不平士族とは、明治の新政府とその政策に不満をもつ士族層のこと。

 秩禄処分と廃刀令で士族の不満はさらに高まった。

 佐賀の乱、敬神党の乱、秋月の乱、萩の乱と一連の反乱が起こったが、すべて明治政府によって鎮圧された。

 不平士族の反乱は西郷隆盛を担いだ薩摩の反乱でクライマックスを迎えるが、この西南戦争にも明治政府側が勝利した。

 明治政府の力は反乱を鎮圧するたびに強くなっていき、西南戦争後には他に並ぶもののない圧倒的な権力を手にした。




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