政党が基盤って、それが普通じゃないの?

 

議会で多数派の政党が内閣総理大臣を出すんじゃないのと思ったアナタ、実は明治~大正はじめまではそうではなかったのです。

 

今回はそんな『政党内閣』についてわかりやすく解説していきます。

 

政党内閣とは?

 

政党内閣とは、特定の政党の議員から首相や大臣をだして内閣を組織するものです。

 

戦前は陸海の軍部大臣もいましたから、すべての大臣が政党人ではないのですが、政党内閣が一般的になるのは第一次世界大戦後の大正時代です。

 

明治期の政治

(明治天皇 出典:Wikipedia

 

 

明治の内閣は明治維新で活躍した薩摩・長州のお偉いさん(元老)やら、そのお偉いさんが推薦した人などが総理大臣になる藩閥政治がメインでした。

 

国民のほうでも選挙や政治に対する理解が浸透せず、1889年に「憲法発布」のお祭り騒ぎをしたものの、意味が分からず「絹布の法被」がもらえると思ってた、などというエピソードも残されています。

 

戦前の総理大臣の決め方

明治憲法の下では内閣総理大臣をどう選ぶかは法律で決まっていませんでした。

 

そのため、元老や重臣会議(総理大臣経験者と枢密院の議長からなる会議)のメンバーが推薦する人を首相に据えるなど、選挙による民意とは離れたところで行政の長が選ばれることがまかりとおっていたのです。

 

しかしながら、選挙で選ばれた議会が予算や法律を決定するため、内閣は議会、特に議会で多数の議席を占める第一党との連携がどうしても必要でした。

 

大正期の政治

(大正天皇 出典:Wikipedia

 

 

大正になると少しずつ国民の権利や選挙のなんたるかも理解され、ロシア革命などの影響もあって、国民のなかに藩閥政治を廃止し、憲政(憲法による政治)を盛り立てていこうという動きが出てきます。

 

また、軍や政治に大きな影響力を持っていた山形有朋など元老たちも亡くなってゆき、最後に残った元老・西園寺公望はイギリス式の立憲君主制を理想とし、政党内閣に好意をもっていました。

 

 

こうした流れを背景に、尾崎行雄らによる第一次護憲運動(1912年~)、護憲三派による第二次護憲運動(1923年~)を経て、1925年には普通選挙法が公布され、加藤高明内閣が成立すると、これ以降は政党内閣が「憲政の常道」として定着しました。

 

 

明治期の政党内閣

(初の政党内閣を率いた大隈重信 出典:Wikipedia

 

 

明治期にも政党内閣がありましたが、いずれも内部対立などで短命に終わっています。

 

予算をめぐる議会と政府の対立は激しかったものの、明治期は元老の発言権が強く、政党政治にはまだ遠い状態でした。

 

①隈板内閣(初の政党内閣の誕生)

1898年には自由党と進歩党が合同して憲政党を組織し、両党の幹部、板垣退助と大隈重信が初の政党内閣を組織しました。

 

しかし、日本初の政党内閣は内部の対立や文相尾崎行雄の共和演説事件などもあって4か月足らずで崩壊しました。

 

 

②第4次伊藤内閣

第3次伊藤内閣で議会の大反対にあって地租増徴案の成立に失敗した伊藤博文は、自ら政党を組織して議会運営を円滑にしようと考えました。

 

1900年伊藤は立憲政友会を組織し、その総裁となって第4次伊藤内閣を組閣します。

 

この内閣は貴族院の根強い反対や内部対立によって半年余りで退陣を余儀なくされました。

 

大正期の政党内閣

(原敬 出典:Wikipedia

①初の本格的政党内閣(原内閣)

1918年の米騒動では、反政府運動まで起こりました。

 

 

これに大きな衝撃を受けた元老らは人気のなかった寺内正毅首相を辞任させ、立憲政友会総裁の原敬を首相に据えました。

 

原内閣は陸相、海相、外相以外の閣僚を母体である立憲政友会から採用し、初の本格的政党内閣と呼ばれます。

 

爵位をもたない首相は原が初めてであったため「平民宰相」として親しまれました。

 

原内閣は国際協調主義をとり、普通選挙法の改正(納税条件の緩和)を行いましたが、原首相が力を入れた鉄道や軍備、貿易に関連する疑獄事件もたびたび起きました。

 

首相在任中の1921年11月、原首相は東京駅で汚職の頻発に憤る青年に暗殺されました。

 

②高橋是清内閣

原内閣の跡を継いだ高橋是清は立憲政友会総裁となり、高橋内閣を発足させました。

 

原の暗殺直後のワシントン会議では海軍軍縮条約を成立させました。

 

しかし、政友会の大黒柱であった原敬の抜けた穴を埋めるまでには至らず、閣内不統一のため半年余りで瓦解に追い込まれています。

 

 

③加藤高明内閣

高橋是清内閣のあと、加藤友三郎、第二次山本権兵衛内閣、清浦奎吾内閣と再び非政党内閣が3代続きました。

 

この間にも労働争議や小作争議は続き、普通選挙を望む声も高まっていました。

 

普通選挙に反対する貴族院を背景として清浦奎吾が内閣を組閣すると、憲政会、立憲政友会、革新倶楽部の護憲三派は第2次護憲運動を展開し、選挙に大勝しました。

 

 

清浦内閣は退陣し、三派による連立内閣が組まれて憲政会の加藤高明を中心とする内閣ができました。

 

1925年には男子の普通選挙法が公布され、このあとの8年間は「憲政の常道」として政党内閣が続きます。

 

 

政党内閣の終わり

(関東大震災時の避難列車 出典:Wikipedia

 

 

第一次大戦後の戦後不況、1923年の関東大震災、1927年の東京渡辺銀行の取り付け騒ぎから始まる金融恐慌などが続いてこの時期の日本は不況に苦しんでいました。

 

 

失業者は増え、デモやストライキなどの労働争議や小作争議など社会問題が発生しました。

 

不況を打開するために中国大陸に進出しようとする陸軍は満州で次々と事件を起こし、ロンドン海軍軍縮条約で軍縮をすすめると、海軍にも政府に不満を持つもが出てきました。

 

 

内外に問題が山積するものの政府は有効な手を打てず、不満を持った海軍将校らは1932年5月15日クーデターを狙って首相犬養毅を暗殺しました。

 

この五・一五事件によって8年間続いた政党内閣の時代は終わるのです。

 

 

この後、日本は挙国一致内閣(経済界、政界、陸海軍大将らによって作られた内閣)を組閣し、次に政党内閣ができるのは1945年の終戦後になります。

 

現在の政党内閣との違い

 

現在の政党内閣との大きな違いは、政党内閣に法的な裏付けがないことです。

 

明治憲法のもとでは、総理大臣を含む国務大臣は天皇が直接任命することになっており、議会と距離を置こうとする超然内閣や民意とはかけはなれた藩閥内閣が成立する原因になっていました。

 

現在の憲法下では・・・

 

「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。この指名は、他のすべての案件に先だつて、これを行ふ。」(日本国憲法第67条第1項)

 

「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。」(日本国憲法第68条第1項)

引用元:衆議院ホームページ

 

と決まっており、議院内閣制が憲法によって定められています。

 

まとめ

 政党内閣は政党に基盤を置く内閣のこと。

 大正デモクラシーの結果、1925年に普通選挙が行われ政党内閣が定着した。

 初の政党内閣は明治期の隈板内閣。

 初の本格的政党内閣は原内閣。

 加藤高明内閣以降は6代続いて政党内閣であった(憲政の常道)。

 五・一五事件後の挙国一致内閣によって終わりを告げる。

 戦後は憲法によって政党内閣以外はありえなくなった。




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