90万部を超えるベストセラーになった田中角栄の著書『日本列島改造論』。

 

この本の内容は田中内閣の政策に反映されましたが、どのような結果となったのでしょうか。

 

今回は、そんなのちの日本におおきな影響を与えた『日本列島改造論』についてわかりやすく解説していきます。

 

日本列島改造論とは?

「日本列島改造論」の画像検索結果

 

 

日本列島改造論とは、1972年6月20日に日刊工業新聞社から出版された田中角栄の本です。

 

この本で角栄は東京に集中しすぎた人やモノを地方に分散させ、新幹線や高速道路を日本全国に作ろうと提唱しました。

 

この政策は多くの国民の支持を得ましたが、経済の混乱があったり、角栄がスキャンダルで首相を辞任したりしたため、思うような成果をあげることができませんでした。

 

「日本列島改造論」が生まれた背景

Kakuei Tanaka 197207.jpg

(田中角栄 出典:Wikipedia

①地方から出世した田中角栄

田中角栄は1918年、新潟県で生まれました。

 

学歴はなんと高等小学校卒。高等小学校は現在の中学校にあたるので、今でいえば中卒で政治家になったわけです。

 

家が貧しかったため旧制中学校(現在の高校にあたる)には行けず、働きながら中央工学校(今でいう専門学校ですが当時の制度では学歴に含まれませんでした)に通いました。

 

19歳で建築事務所を設立すると、戦後に政治家となって衆議院議員に、そして1957年には岸信介内閣で30代にして郵政大臣になりました。

 

その後も大蔵大臣や通商産業大臣、自由民主党(自民党)の幹事長といった重要なポストを務めます。

 

つまり、田中角栄という人は地方の貧しい家で生まれ、異例の若さで大出世した人だったんです。だから国民にすごい人気がありました。そして、この生い立ちが「日本列島改造論」にも反映されています。

 

②自由民主党の総裁選で発表

1972年、角栄は佐藤栄作の派閥から独立して、田中派を立ち上げます。

 

そしてこの年の7月の自民党総裁選に立候補。この時に発表した政策集が「日本列島改造論」だったのです。

 

その結果、佐藤栄作が推していた福田赳夫(たけお)を破り、自民党総裁に当選。

 

 

(福田赳夫 出典:Wikipedia)

 

 

当時は自民党がずっと与党でしたから、角栄は自動的に日本の首相の座につくこととなりました。

 

『日本列島改造論』が発売されたのはそんな時期でした。

 

政治家が書いた本が90万部ものベストセラーとなったのは異例のことですが、それだけ国民の関心が高かったことがうかがえます。

 

ちなみに、この本は田中角栄が著者ということになっていますが、当時大臣で忙しかった角栄が自分で書いたわけではありません。

 

角栄が話したことを、若手の官僚や新聞記者がまとめて執筆したと言われています。

 

「日本列島改造論」の内容

①工業の地方分散と地方都市の建設

この本が書かれた1972年は「明治維新」から約100年後でした。

 

 

明治以来、工業や商業は太平洋側の東京・名古屋・大阪を中心に発展し、北陸地方などの日本海側は「裏日本」と呼ばれて発展が遅れていたというのが当時の状況です。

 

特に戦後は東京に人口が集中して公害などの問題が起こる一方で、地方は、地域の差が大きくなっていました。

 

そこで「日本列島改造論」では工業地帯を地方に移転させるということを提唱しました。

 

雪があまり降らない太平洋側を農業地帯にして、雪の多い北海道・東北・北陸を工業地帯にすれば、農業と工業が同時に発達するというアイディアです。実際は太平洋側が工業地帯、日本海側が農業地帯ですから、これをひっくり返したほうがいいということですね。

 

それにともなって、人口25万人程度の地方都市を建設しようという計画も構想されていました。

 

これらの政策は、新潟出身の角栄が「豪雪地帯の貧困の解消」を目指していたという面もあります。

 

②新幹線と高速道路の建設

「日本列島改造論」の大きな特徴は、日本列島を新幹線高速道路本州四国連絡橋などでつなぐという計画にありました。

 

当時、まだ新幹線は東京―岡山間しか開通していません。高速道路もまだ東名高速道路などがあっただけです。

 

そこで角栄は新幹線9000キロ、幹線道路10000キロという遠大な計画をぶち上げました。北は北海道の稚内から、南は九州の鹿児島まで、日本の各地に新幹線を建設。つまり、在来線の多くを新幹線に置き換えてしまおうということです。

 

従来は、東京と大阪、名古屋といった人口が多い地域を新幹線で結ぼうという発想でした。でも、角栄はむしろ人口の少ない地域に新幹線を通して、その駅を拠点に地域を発展させるという発想の転換を行ったのです。

 

その結果できたのが、上越新幹線や東北新幹線。フェリーや連絡船で移動するしかなく不便だった四国には、本州と結ばれた橋(本州四国連絡橋)が作られました。

 

③情報通信網の形成

さらに、日本全国を情報通信のネットワークで結ぶという構想もありました。

もちろん、当時はまだインターネットなんてありません。

 

そんな時代に、情報通信のネットワークができれば教育や医療も都市と地方の格差がなくなるということが構想されていたのです。

また、角栄は全国で多くのテレビ局の開設を許可しました。

 

今でこそ、多くの県で民放テレビのチャンネルは4つ以上ありますが、この当時はNHKのほかに民放テレビが1つか2つしかないという県が多かったんですね。

 

こうした点でも、東京と地方の情報格差を改善しようという動きがあったのです。

 

こうした政策は、角栄が通信や放送を担当する郵政大臣だった経験によるものと言われています。

 

「日本列島改造論」の結果

①インフレとオイルショック

しかし、角栄の政策は地方の土地の値段や物価が急上昇するというインフレーション(インフレ)を起こしました。

 

また、タイミングが悪いことに1973年の第四次中東戦争によってオイルショックが起き、石油の値段も値上げ。「狂乱物価」といわれるほど物価の上昇に歯止めがかからなくなります。

 

 

そこで角栄はライバルである福田赳夫を大蔵大臣に起用して、予算を減らし、省エネルギーの政策を打ち出さざるを得なくなりました。

 

当然、新幹線や道路の建設なども計画を遅らせることになり、「日本列島改造論」は大きく後退します。

 

さらに、地方への工業の移転は、公害を全国に拡大させたという批判もありました。

 

 

②田中角栄内閣退陣と失脚

1974年12月、角栄は「田中金脈問題」という政治スキャンダルによって首相を辞任。

 

1976年にはロッキード事件によって逮捕されます。

 

その後も角栄は自民党内で大きな影響力を持っていましたが、1985年に脳梗塞で倒れて以降は政治活動ができなくなり、1993年に死去しました。

 

「日本列島改造論」の政策の多くは鉄道や道路を作るというもので、建設業界と深い関わりがありました。

 

角栄は建設業界への影響力が強く、政策を実現することで多額の献金を受けていたという側面があったのです。

 

また、新潟と東京を結ぶ上越新幹線の建設も、角栄の地元への利益誘導という面があったことは否めません。

 

「日本列島改造論」のその後

(安倍晋三 出典:Wikipedia

 

 

21世紀に首相となって長期政権を築いたのは、角栄のライバル・福田赳夫の直系の政治家である小泉純一郎安倍晋三であり、田中派直系の政治家は力を失ってしまいました。

 

1980年代のバブル経済が崩壊し、日本の経済は長い停滞期に突入。東京への一極集中がさらに進んで、地方は衰退するという傾向が続いています。

 

 

新幹線は北海道から鹿児島まで開通しており、「日本列島改造論」が残したものは決して小さいものではありませんでした。

 

しかし現在では地方のローカル線が次々と廃線になり、「地方切り捨て」が進んでいるともいわれています。

 

結局、21世紀の日本は彼が夢見た「列島の均衡ある発展」とは程遠い状況となってしまったようです。

 

まとめ

 『日本列島改造論』は1972年に発売された田中角栄の政策論の本。

 日本列島の均衡ある発展を目指し、地域格差の解消を提唱。

 新幹線、高速道路、本州四国連絡橋の建設による交通網の充実を目指す。

 情報通信網の構築によって情報格差をなくすという構想も。

 インフレやオイルショックの影響で計画が頓挫した。




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