江戸時代の改革といえば三大改革が有名です。
3つの改革ともに政策内容が少し似ている割に法令の名前は違っていたりします。
もちろんそれぞれの時代背景も違うので似ているとはいえ特色があります。
今回は、江戸時代の三大改革の主要な内容と覚え方をご紹介します。
江戸時代の三大改革とは?
江戸時代の三大改革は享保の改革、寛政の改革、天保の改革のことを言います。
江戸時代の三大改革
✔ 享保の改革・・・8代将軍徳川吉宗が主導して行った1716~1746年に及ぶ幕政改革。主に倹約・新田開発・年貢増徴による財政の再建を目指し法制の整備も行いました。
✔ 寛政の改革・・・老中首座松平定信が主導して行った1787~1793年に及ぶ幕政改革。田沼政治を反省し農村復興と社会政策に力を入れました。
✔ 天保の改革・・・老中首座水野忠邦が主導して行った1841~1843年に及ぶ幕政改革。享保、寛政の改革を手本に財政緊縮を行いました。また、経済統制や幕府権威の増強も図りました。
これだけではざっくりし過ぎているので、それぞれについて詳しく解説していきます。
享保の改革について詳しく
(徳川 吉宗 出典:Wikipedia)
享保の改革の背景
江戸時代の中期は幕政の転換点でした。様々な要素がありますが・・・主に以下のことが挙げられます。
改革の背景
①新田開発、農業技術の発展による生産力向上が停滞しつつあった
②貨幣経済が発展し商取引が盛んになった
③江戸が100万人都市になった
④庶民が裕福になったことによって消費需要が高まり物価が上がる一方で米の生産量が増加していたため米価の低下が進んでいた
こうした時代背景のもと改革は行われました。
享保の改革の内容
①財政対策
前項でも述べた通り江戸時代中期は農業生産力向上が停滞した時代です。
そこで、徳川吉宗は今まで禁止していた商人による新田開発を解禁し、町人請負新田など新田開発を奨励します。
さらに税率の決め方を検見法から定免法に変えます。
検見法はその年にとれた米の量を踏まえて税率を決める方法ですが、毎年税率が変わってしまうので収入が安定しませんし手間がかかります。定免法に変えることで不作豊作によらず、数年間一定の税率になり収入を安定させようとしたのです。
また、1723年に質流し禁令を出し田畑が豪農のもとに集積していく流れを止めようとしましたが、反発が大きくすぐに撤廃してしまいました。
質流し禁令の撤回は質流しによる土地の集積を暗に幕府が認めたことになり、その流れは一層加速する事態を生んでいます。
そして年貢増徴だけでなく幕府や藩の出費を抑えさせるために、倹約令を出し財政の引き締めを図りました。
②商取引の増加と江戸の人口対策
商取引が増えると揉め事も増えます。
そこで相対済まし令を出し金銭貸借の争いを当事者間で済ますようにしました。
また、金銭貸借ではない商取引でのトラブル、人口増加に伴う犯罪の増加などで裁判が増えても迅速に対応できるよう法律を公事方御定書にまとめました。
さらに火事も増加したので火除地という延焼防止の空き地を増やしたり町火消という消防組織を整えました。
そして小石川養生所を建て貧民層の治療設備を整えました。
③物価対策
物価は上がるのに米価は下がるという現象に対し幕府は一つ一つ対処していきました。
まず、幕府は物価対策として株仲間を公認し独占的な営業を認めました。
さらに米価対策として堂島の米市場を公認しました。
独占的な営業を認め商取引の窓口を少なくすれば商品の値段や米価の価格統制も容易になります。幕府はそのことを利用して物価を操ろうとしました。
また、貨幣改鋳を行い金の含有量を減らして通貨量を増やし、経済活動を増やし物価を安定させようとしました。
④役人管理
1723年に足高の制を施行し下級役人を抜擢しやすいような仕組みを整えました。
さらに、目安箱を設置し役人が不正をしていないかを民衆の目で監視させようとしました。
目安箱は内政の意見箱としても活用されています。
⑤その他
実学を奨励したほか漢訳洋書の輸入緩和を行い、日本に新しい知識や技術を取り入れようとしました。
寛政の改革について詳しく
(松平定信 出典:Wikipedia)
寛政の改革の背景
寛政の改革が行われる前まで田沼意次による重商主義政策が行われていました。
しかし、この田沼による重商主義政策によって様々な問題が発生していました。
主な改革の背景として、以下のことが挙げられます。
改革の背景
①貨幣経済が農村に浸透したことで階層分化が進んだ
②階層分化が進んだことで貧農が増加し耕地の放棄、農業労働力の低下が進んだ
③貧農が都市に流れ込んだことで都市の貧民層が激増し打ちこわしが頻発した
④天明の飢饉が発生しそうした流れを加速させた
こうした時代背景のもと改革は行われました。
改革の内容
①農村対策
旧里帰農令を出すことによって江戸へ出稼ぎにきた貧農が農村に戻れるよう促しました。
さらに天明の飢饉のような飢饉の発生に備えて囲い米の制を命じ社倉・義倉の設置を進めました。
しかし、旧里帰農令はあくまでも奨励策ということもあり効果はほとんどありませんでした。
②都市対策
貧民を減らすとともに打ちこわしの原因となった不安定な米価対策、借金対策を行いました。
まず旧里帰農令を出し江戸全体を占める貧民の数を減らそうとしました。
また、人足寄場を設け職のない人間に技能をつけさせ生活の自立を促し、さらに豪商を勘定所御用達として登用し米価の安定に協力させました。
そして棄捐令を出し旗本・御家人の借金を破棄させました。
また七分積金を制度化し、災害に備え江戸の町全体で資金の蓄えを命じました。
倹約令を出し景気の引き締めを行うとともに幕府財政を整えました。
③秩序の引き締め
打ちこわしが起きないよう町全体の秩序の引き締めを図りました。
寛政異学の禁によって幕府の思想と相性のいい朱子学以外の学問を禁じ、学問・思想の統制で幕府に都合のいい人材を育成しようとしたのです。
また、出版統制令を出し風俗を乱す本や反幕府的な本の出版を取り締まりました。
しかし、風俗の取り締まりはかえって人々の幕府に対する反感を生むことになり、定信の失脚の原因にもなりました。
息苦しい世の中にしてしまったのです。
天保の改革について詳しく
(水野忠邦 出典:Wikipedia)
天保の改革の背景
天保の改革が行われた時期は内憂外患の時代です。
つまり、国内情勢が変容し外国からの危機にも対処しなければならなかった時代背景があります。
改革の背景
①階層分化に歯止めがかからず地主と小作人の関係が広まっていった
②貧農の都市流入が進み江戸の貧民層が6割にも及んだ
③モリソン号事件、アヘン戦争が起こり外国の脅威が現実のものとなりつつあった
④天保の飢饉、流通の仕組みの変化などにより物価があがった
こうした時代背景のもと改革は行われました。
天保の改革の内容と結果
①農村対策
人返しの法を出し出稼ぎ農民の強制的な帰農を命じました。
そうすることで農民の数を増やし本百姓体制の維持を狙いました。
ある程度の効果はあったのですが、在任期間が短く有意な効果はありませんでした。
②物価対策
水野忠邦は物価騰貴の原因を株仲間が独占的に市場を支配していることにあると考えました。
そこで1841年に株仲間解散令を出します。
しかし、株仲間が解散したことでかえって流通は混乱し物価はさらに上昇してしまいました。
また、倹約令を出し景気の引き締めを図るとともに幕府の財源対策を行いました。
③秩序の引き締め
風俗取締令を出し出版、寄席などの娯楽にまで規制は及びました。
反幕府的な思想を取り締まるだけでなく江戸に住む人全員が紀律正しい暮らしを送ることを図ったのです。
もちろん人々の反感を呼ぶ結果となりました。
④上知令
天保の改革では幕府の財政基盤を固めること、海防を強化することを目的に江戸や大坂の領地を幕府直轄地にするという上知令を出しました。
しかし、領地を持つ旗本や御家人は土地を取り上げられることに強く反発し失敗しました。
このことがきっかけで忠邦は失脚します。
⑤その他
忠邦は財政難にあった川越藩の松平家と裕福であった庄内藩の酒井家、長岡藩の牧野家の領地を転封しようとしました。
しかし、各地で反対が発生しこれも失敗に終わっています。これを三方領地替えといいます。
江戸時代の三大改革の覚え方
三大改革で年代、実行者がごっちゃになってしまう人がいると思います。そんな人のために有名な覚え方があります。
覚え方
✔ いいな色(1716)っぽい競歩(享保)選手は、よく胸(よしむね)をはって歩く。
(いいな色→1716年 競歩→享保 よく胸→徳川吉宗)
✔ インナー花柄(1787)、どんな感性(寛政)してるの?松平さん。
(インナー花柄→1787年 感性→寛政 松平さん→松平定信)
✔ いやしい店舗(天保)は、水の(みずの)泡。
(いやしい→1841年 店舗→天保 水の→水野忠邦)
政策についてはそれぞれの改革が行われた時代背景を正確に覚えそこと政策を組み合していけば覚えやすくなります。
まとめ
✔ 享保の改革は1716年~1746年に徳川吉宗が実行した。
✔ 財政再建、物価対策、米価対策、都市対策、役人管理の改善が行われた。
✔ 寛政の改革は1787年~1793年に松平定信が実行した。
✔ 農村対策、都市対策、秩序の引き締めが行われた。
✔ 天保の改革は1841年~1843年に水野忠邦が実行した。
✔ 農村対策、物価対策、秩序の引き締めが行われた。
✔ 天保の改革は寛政の改革よりも全体的に厳しい。