江戸時代というと「火消」が話題に上ることが多く、その中でも「め組の辰五郎」については、後に歌舞伎の題材になるくらい有名です。

 

「火事と喧嘩は江戸の華」というように、火事の多かった江戸。

 

しかし、江戸の町の消防の仕組みや消火活動の中身などは意外と知られていませんね。

 

まず、江戸の火消の全体像を解説し、『火消しのめ組』が有名な理由なども簡単にわかりやすく解説していきます。

 

火消しのめ組とは

 

江戸の町で町人の火消を担っていた組織をいろは48組と言います。

 

「め組」とは、そのうちの一つで、現在の地名で言うと港区浜松町や港区芝大門などを受け持ち区域にしていた組織になります。

 

江戸時代の江戸の町と火事

 

 

江戸時代の江戸は、世界有数の人口を誇る大都市でした。

 

時代劇でわかるように、民間の人たちは長屋と呼ばれる家に住んでいました。

 

その長屋は密集していたこともあり、一旦火事が発生すると燃え広がりやすかったわけです。

 

勿論、現在のような消防車や水道はありません。

 

では当時の江戸の消防制度はどのようになっていたのでしょうか?

 

江戸の消防制度

江戸の消防は誰が担っていたのか?

江戸の消防は、武士が担っていたのは旗本が担う定火消」、江戸にあった大名屋敷の武士が担う大名火消」です。

 

それらと町人が担う町火消」に分かれていました。

 

これらの制度は、徳川家康が江戸に入ってからすぐできたわけではありません。

 

武士による火消のほうが早く出来上がりました。ただ、武家屋敷の消防には熱心でしたが、町人の地区についてはいい加減といっていい状況でした。

 

そこで、「め組」などが登場する町火消の「いろは48組」は、8代将軍・徳川吉宗が行った「享保(きょうほう)の改革」の一つとして制度化されました。

 

 

いろは48組

1720年(享保5年)、隅田川(別名、大川)から西を担当する組織として作られました。

 

しかし、地区ごとの町火消はその前にもありましたが、うまく機能しません。

 

そこで、地区割りの変更をした上で、新たに組織。最初は47地区に区分けされました。

 

このとき幕府側で設置にあたったのは、南町奉行の大岡忠相(おおおかただすけ、越前守)でした。

 

町人が担う『町火消』とは

どんな人たちが所属していたのか?

現在の消防団と同じで、普段は仕事をして火事があると駆けつけてきました(このため、町火消は消防団の原型といわれています)。

 

後述する消化方法がとられたせいもあり、主にとび職の人たちが所属していました。

 

②町火消の消火方法

初めのほうで少し触れたように、江戸時代は現代のような整った設備はありません。

 

当時は、火を消すというよりも「これ以上延焼させない」といったほうがいい消火活動をしていました。

 

現在の消火は、火が出ているところに水をかけるのが主ですが、江戸時代は「破壊消防」と呼ばれる方法で、火元の建物から風下の方向に隣接している家などを壊していくというやり方です。

 

建物になれているとび職が力を発揮できたわけです。

 

③消火に使用した道具

(再現された『め組の纏』 出典:Wikipedia)

 

 

これらの町火消の道具で真っ先に浮かぶのは、纏(まとい)ですね。纏振りが屋根に上がって振ります。

 

武士が戦のときに掲げる「馬印」や「旗印」が火事の現場で使われるようになり変化したもので、大岡が志気を揚げるため使用を許しました。後に組ごとに凝ったデザインとなっていきました。

 

また、建物を壊すため鳶口(とびぐち)、普段は犯罪の容疑者を捕まえるためにも使った刺又(さすまた)も使用していました。ちなみに、刺又の形は、消防署を表す地図の記号となっています。

 

その他に、龍吐水(りゅうどすい)という放水ポンプもありましたが、水を消すほどの威力はなく、纏振りに水をかける程度だったと言われています。

 

また、火の粉を振り払うために「大団扇」も用いられました

 

④町火消の衣装

火事が発生すると、どういういでたちで火事に向かったのでしょうか?

 

頭には、「刺子頭巾(さしこずきん)」という分厚い頭巾をかぶりました。別名「猫頭巾」と言われ、煙を吸わないような作りとなっていました。

 

そして普通の半纏に比べると分厚くて丈も長めの「刺子半纏(さしこばんてん)」を着て手袋をしていました。

 

当然、防炎加工をした服はありませんでしたので、衣装にたっぷりと水を含ませて、活動していました。

 

江戸の三大大火

(明暦の大火 出典:Wikipedia

 

 

火事が多かった江戸ですが、明暦の大火(振袖火事、明暦3年 1657)、明和の大火(明和9年 1772)、文化の大火(文化3年 1806)を「江戸三大大火」と呼んでいます。

 

特に明暦の大火は、わが国史上最大の被害をもたらした他、世界三大火災(他64年のローマ大火、1666年のロンドン大火)の一つにも数えられています。

 

 

火事と喧嘩

火事が起こると、後日褒美をもらうために消火に当たった組がわかるような目印を立てておくのですが、「どの組が立てるべきなのか」を巡る功名争いの原因となりました。

 

そのトラブルが原因で火事現場で喧嘩が始まるわけです。

 

幕府はたびたび禁じましたが、なくなることはありませんでした。

 

火消しの「め組」について

め組はなぜ有名な理由

江戸の町火消というと、真っ先に「め組」が挙げられますが、これには「め組の喧嘩」という講談や「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」という歌舞伎の題材となった有名な事件があったからです。

 

②「め組の喧嘩」とは

この事件は、文化2年(1805)に起きました。

 

芝神明宮(現在は、港区芝大門の芝大神宮)境内(め組の管轄)で開催中だった江戸相撲の春場所の木戸銭(入場料)を巡る争いが発端です。

 

め組の鳶職・辰五郎は木戸御免(無料で見てよい人)でしたが、その知人で木戸銭が必要な富士松もただで見ようとしたことから、入り口で口論となりました。

 

そこへ力士の九竜山が通りかかって、木戸番に味方したので、辰五郎らは一旦引き下がりました。

 

このあと、辰五郎たちは、芝居見物に向かいました。ところが九竜山も同じ芝居小屋に来てしまいます。

 

九竜山は、さっきの件で面白くない辰五郎や他の見物客達によって満座の中で野次り倒され恥をかかされてしまいました。我慢できなくなった九竜山は辰五郎を投げ、芝居を台無しにしてしまいます。

 

相撲の年寄や火消のかしらが仲裁に入り一旦騒ぎは収まりかけたものの、九竜山と同部屋の力士が仕返しを焚きつけ力士を集める一方、火消の人たちも火事場に行く格好で駆けつけたり、火の見やぐらで半鐘を鳴らして動員をかける有様です。

 

火消は管轄の江戸町奉行、相撲側は寺社奉行にそれぞれ訴えたものの仲裁できる状況ではなく、最終的に与力や同心が乱闘に割って入らざるを得ず、合計36人が捕らえられてしまいます。

 

喧嘩のその後

この喧嘩は規模としてはそれほど大きくないものの、江戸町奉行、寺社奉行、後には農民の裁きをする勘定奉行まで乗り出して、協議しながら行うという珍しい形で行われました。

 

騒ぎでけが人は出たものの死者はなく、結局、辰五郎は百叩きの上江戸払い(追放)、早鐘を鳴らした男などが江戸追放。その他の鳶は説諭と罰金と比較的軽く済みました。

 

力士側では九竜山のみ江戸払いを命ぜられ、他にお咎めはありませんでした。

 

ちなみに、このとき鳴らされた半鐘は遠島(島流し)となりましたが、明治時代になってから芝大神宮に戻されました。

 

別人の辰五郎

(新門辰五郎 出典:Wikipedia

 

 

火消「を組」の新門辰五郎とめ組の辰五郎は別人です。新門辰五郎のほうは、文化2年当時はまだ子供でした。

 

新門辰五郎は、浅草で有名になったほか最後の将軍・徳川慶喜と関係が深かったこともあり、ドラマなどに取り上げられる人物です。

 

主なかかわりを見ていくと、娘が慶喜の身の回りの世話(いわゆる妾)をしました。

 

征夷大将軍になる前の慶喜が朝廷から禁裏御守衛総督(京都にある、孝明天皇の住まいである御所の警備責任者)に任じられると、京都に呼ばれたため子分と上洛(京の都に行くこと)して徳川幕府の物である二条城の警護にあたります。

 

そして鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜が会津藩主松平容保(かたもり)らと江戸に逃亡すると、慶喜が大坂城においてきた家康以来の金扇の大馬印を江戸まで届けたり、水戸や駿府(現在の静岡市)で謹慎する慶喜の警備に当たるなどしました。

 

まとめ

・町火消のいろは48組は、徳川吉宗の享保の改革で設置された。

・町火消は消防団の原型とされている。

・町火消はとび職の人たちが多く所属し、現場では巧妙争いにより喧嘩が多かった。

・め組の辰五郎は、相撲見物の木戸銭を巡って起きた「め組の喧嘩」の当事者となった。この喧嘩は、後に歌舞伎の題材となった。

・幕末の新門辰五郎は別人。

関連キーワード