江戸時代中期以降日本全国の藩はお金がなく、借金まみれとなっていました。このままでは藩が潰れてしまいます!それをなんとかするために各藩は藩の財政を立て直そうとしていました。

 

今回は藩の涙ぐましい努力である藩政改革や改革を大成功した藩などを解説していきます。

 

藩政改革とは

 

 

藩政改革とは江戸時代中期以降から各藩やった改革のことです。

 

当時江戸幕府でも江戸三大改革などの改革をしており、薩摩藩や長州藩は藩政改革によって幕末の時に雄藩と言われる倒幕運動の原動力となりました。

 

藩政改革の背景・目的

 

 

江戸時代中期以降になると様々な出費・そして災難が続きます。

具体例

・各藩は2年に一回江戸に行かなければいけない参勤交代の江戸までの行程や江戸での生活費などの出費

・江戸城や江戸の街の工事の出費

・宝永の大噴火や天保の飢饉などの度重なる自然災害や飢饉

・明暦の大火などの大火事で燃えた江戸藩邸の再建による臨時の出費

などなど・・・各藩の財政が大きく圧迫されていました。

 

特に幕府から嫌われていた外様大名は特に江戸での工事を任されてしまい、余計に財政が悪くなってしまいます。幕府の狙いからすればこうすることによって外様大名は幕府に刃向かう事がなくなるのですが、にしても酷すぎる・・・。

 

このため各藩では大赤字が続いてしまい、各藩は大坂の商人に頭をぺこぺこと下げてなんとかその場をしのぐようなことが続いていました。

 

藩政改革を大成功させた藩

 

 

藩政改革を成功させた藩はいくつかありますが、今回は特に改革を成功させた米沢藩、薩摩藩、長州藩を紹介していきます。

 

①米沢藩の藩政改革

米沢藩の歴史は関ヶ原の戦いまでさかのぼります。

 

関ヶ原の戦いで西軍についた上杉家はそれまでの会津・庄内120万石から置賜郡米沢30万石に大減封となり、さらに3代藩主が急死して子供がいなかったため石高を半分減封されてしまい、ついには15万石となります。

 

しかし、上杉家は上杉謙信の義の心が染み付いているため出来るだけ藩士をリストラしない方針を採っていました。

 

そのため15万石の中堅レベルの石高の藩に約3000人の藩士がいるという異常事態となってしまいます。結果、米沢藩は藩士への給料支払いによる財政の悪化が深刻な状態でした。

 

そんな時に米沢藩に新たな藩主が就任しました。その男の名は上杉治憲(上杉鷹山)のちに『為せば成る、為さねばならぬ、何事も 成らぬは人の、為さぬなりけり』という名言でも有名な人です。

 

当時米沢藩には藩予算の約6年分である20万両の借金がありました。上杉治憲が就任した時の一両が大体10万だったので今の価格に換算すると約200億です。

 

上杉治憲はこれまで贅沢していた物を全てやめさせいわゆる倹約という行動に出ました。

 

参勤交代の経費カット、灌漑用水を整え石高を増加させたり、さらに米沢藩の特産品を作ったりして財政を安定させます。さらに米沢藩の農民には食べてる野草を書き記した『かてもの』を配ったりして飢饉に備えていました。そのおかげか天保の大飢饉の時は米沢藩では一人も餓死者を出さなかったそうです。

 

さらに上杉治憲自身も贅沢をせずに一汁一菜の徹底をして、自ら倹約をしていました。

 

その結果、上杉治憲が1822年に亡くなる頃には米沢藩の借金はほとんどが返済を終えて、米沢藩は奇跡の復活を成し遂げたのです。

 

ちなみに上杉治憲の改革は海外にも知られており、アメリカ第35代米国大統領になったジョン・F・ケネディは「日本で最も尊敬する政治家はだれですか?」と質問された時に「上杉鷹山です」と答えたそうです。

 

②薩摩藩の藩政改革

改革を行う前の薩摩藩の財政は破綻していたも同然な状況でした。江戸末期の薩摩藩の借金は500万両もあったといわれます。この頃の1両が大体7万円ぐらいでしたので、今の価格に換算すると3500億円の借金をしていました。

 

ちなみに、当時の薩摩藩の1年の収入が13万両。それだけでも全然借金の総額に届きませんが、さらに年間4万両の大赤字で、すでに薩摩藩士たちへの給料も、十分に支払えないありさまでした。このままでは、破綻へまっしぐらです。

 

そこで薩摩藩は調所広郷という人を藩政改革の担当にしました。

 

調所広郷がまず最初に取り組んだのが借金問題です。当時500万両もの借金をしていた相手は、主に大坂などの商人でした。

 

そこで調所広郷は商人たちを集めて「これから500万両の借金は250年無利子払いで支払う」と言い放ち、さらに借金の書類などを焼きました。

 

250年間というと薩摩藩がこの宣言をしたの1836年ですので完済まで、今でもあとまだ70年近く完済していない計算となります。

 

商人からしたら『ふざけんじゃねーぞ!もう二度一銭たりとも薩摩藩に貸さねえよ!』と言いたくなりますが調所広郷は借金をこのように返す代わりにとある商品を独占的に商売させる権利をあげました。

 

当時薩摩藩だけにあったもの、それは砂糖でした。砂糖は当時薩摩藩の支配下にあった琉球王国や、奄美大島しか採れず、さらに需要があるため高く売ることができました。

 

薩摩藩は砂糖を作ってから売るまでの工程を藩が一括してやる専売制という制度を採用して大儲けしました。さらに琉球王国を経由した清との密貿易も成功して借金は完済。さらに150万両の備蓄を持つぐらいの裕福な藩へと生まれ変わりました。

 

③長州藩の藩政改革

長州藩は西軍についたことによって広島120万石から萩36万石まで減封されてしまいました。さらにそこから幕府からの嫌がらせ、天保の大飢饉などで財政は崩壊し、140万両に相当する借金をしていました。

 

これではいかんと当時の藩主毛利敬親村田清風という人に財政の立て直しを任せました。

 

村田清風は薩摩藩と同じようにまず借金の整理から始めました。村田は「三七ヵ年賦皆済仕法」というルールを決めます。これは、『これから借金した金額のの3%を37年にわたって返済すれば全て返し終えたことになる』というルールでした。

 

村田はさらに長州藩の位置にも注目していました。

 

この頃長州藩にあった下関海峡は日本海から瀬戸内海に入る重要な拠点の1つでした。そこで地元の豪商を登用して越荷方という役職を作ります。

 

越荷方というのは藩が下関に来た船に対して荷物をを担保に資金を貸し付けたり、荷物を買って長州藩が代わりに商品を売ったりする役職でした。

 

このような村田の財政改革により、長州藩の財政は復活し、石高は36万石なのに実高は100万石とも言われていました。

 

藩政改革の影響

藩政改革を成功させた薩摩藩と長州藩は財政に余裕ができてどんどん近代武器などを輸入したりするなど近代化に努めていくようになります。

 

そしてついにこの二藩は幕末における原動力となり、後の明治維新などに活かされていくようになるのです。

 

まとめ

・藩政改革とは江戸時代中期から各藩で行っていた改革のこと。

・藩政改革を成功させた薩摩藩と長州藩はのちに幕末の主役となった。




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