【旧里帰農令と人返しの法の違い】わかりやすく解説!!意味や目的など

 

旧里帰農令と人返しの法は一見内容が同じように見えて実はちょっと違います。

 

センター試験や私立大、国立大の二次試験でも引掛け問題として利用されやすいこの2つの法律。それぞれの法律をわかりやすく解説していきます。

 

旧里帰農令と人返しの法の違い

 

 

2つとも江戸時代に実施された政策で主な内容は農民を農村に送り返すこと。しかし実施された時期、内容、また主導した人物が異なっています。

それぞれの意味

旧里帰農令……1790年(寛政2年)に老中松平定信寛政の改革1つとして実施。江戸に流入していた没落した農民を農村に戻るよう奨励した。

人返しの法……1843年(天保14年)に老中水野忠邦天保の改革1つとして実施。江戸に流入していた没落した農民を強制的に農村へ送り返した。

 

ここでとりあえず抑えるべきは、「年号(1790年と1843年)」、「人物(松平定信と水野忠邦)」、「奨励か強制か」です。特に「奨励か強制か」は記号の選択肢を選ぶ際に重要なヒントの一つになります。

 

では2つの法令について詳しく見ていきましょう。

 

旧里帰農令とは

(松平定信 出典:Wikipedia

 

 

旧里帰農令は、1790年に松平定信が寛政の改革の1つとして実施した政策です。江戸に流入していた没落農民を農村に戻るよう奨励した法律です。

 

①階層分化の進行

江戸時代に入って農業生産は大きく向上しました。幕府主導で新田開発が進み農業技術の進歩もどんどん進んでいったのです。有名なものでいうと備中鍬、千歯こき、とうみの開発や金肥(干鰯、油粕など)が挙げられます。

 

そして、米が安定的に収穫できるようになると余剰米が出来る農家も増え商品作物の生産も増えました。木綿や菜種などです。

 

商品作物が米と大きく違うのは商品作物が換金を目的に生産されることです。米は幕府に収める税や一家を支える食糧として生産されていましたが、商品作物は都市で販売するために作られました。

 

江戸時代中期に入ると貨幣経済の発展と農業生産の発達により豪農と貧農の格差が大きくなっていきました。このことを階層分化といいます。

 

たくさんの作物を生産できる豪農は、それを売って貨幣にして蓄えたりもっと稼ぎを増やすために蓄えた金で土地を集めたり副業で工場を持つようになったのです。これが問屋制家内工業工場制手工業(マニファクチュア)と呼ばれるものです。さらには農民自らが商人となる人もいました。これはのちに在郷商人と呼ばれます。

 

そんなことができない貧農は資金繰りに困ると土地を豪農に売りました。このようにして没落した土地を持たない農民は誰かのもとで働くしかなく豪農のもとで働くか、もっと多くの仕事を探し求め奉公人となるべく江戸へ行きました。

 

②田沼時代

(田沼意次 出典:Wikipedia

 

 

田沼時代は老中田沼意次が主導して政治を行った時代をいいます。

 

田沼時代は今までの幕府政治とは大きく違った政策をとります。それが重商政策です。

 

今までは年貢を増やす政策や緊縮政策を中心に行われていましたが、田沼は発展していた貨幣経済に目をつけ商売人から税をとることを考えたのです。これが運上・冥加と呼ばれるものです。

 

重商主義政策では商売が盛んになればなるほど商売人から徴収できる税は増えます。田沼は商品作物の生産振興、株仲間の結成奨励など商売振興策をとります。

 

農村に目をむければそれは「商品作物を生産する余裕のある農民」とそうでない農民との差はますます広がります。階層分化はもはやとどまることがなかったのです。

 

③天明の飢饉

そんな中、関東・東北を中心に天明の飢饉が発生します。飢饉が起こると蓄えのない貧農は大ダメージを受けます。天明の飢饉によって階層分化はさらに進み、職を求めた貧農の江戸への流入は加速しました。

 

さらに天明の飢饉で米の収穫量が減ったため物価が高騰し江戸の貧民と江戸に流れ込んだ貧農は物が買えなくなります。そこで「物の値段を下げろ」と要求する暴動が多発しました。これが打ちこわしです。

 

一方、農村部では多くの貧農が土地を手放したため多くの農地の荒廃が進み米の収穫量を増やすことも容易ではありませんでした。

 

④旧里帰農令の実施とその結果

江戸幕府は荒廃した農村の復興と生活に困った江戸の町人に対する対策を打たなければならなくなります。このような状況をうけ当時の老中松平定信寛政の改革を実施しました。

 

 

旧里帰農令は農村の復興、江戸の貧民への対策としての目的を持った法律なのです。農村に返すことを目的にした法律なので他国への農民の出稼ぎも制限しています。

 

職を求めて江戸に流れ込んだ農民が自分のいた農村へ戻れば農村人口が増え農村はまた元に戻り、また江戸にいる貧民の数は農民の分だけ減ることになるとふんだのです。

 

しかし、旧里帰農令は強制力がなくあくまでも奨励策です。農村に帰っても苦しい生活が待っていると考えた多くの農民は江戸にとどまりました。旧里帰農令はほとんど失敗に終わったのです。

 

人返しの法とは

(水野忠邦 出典:Wikipedia

 

 

人返しの法は、1843年に老中水野忠邦天保の改革1つとして実施した法律です。江戸に流れ込んでいた没落農民を強制的に農村へ送り返した法律です。

 

①天保の飢饉

旧里帰農令は失敗に終わったと述べました。そう、階層分化は進んだままで農民が江戸へ職を求めに来る流れは依然残っていたのです。

 

そのような中、天保の飢饉が発生し農村に大打撃を与えます。もちろん農村から江戸への流入は加速しさらに物価も高騰したことから打ちこわしが多発しました。

 

②人返しの法の実施と結果

そのような状況の中、幕府は農村の復興と江戸の貧民対策をしなければなりません。天保の改革はこれら2つの対策を中心に行われました。

 

老中水野忠邦は松平定信と同じようなことを考えます。つまり、江戸に流れ込んだ没落農民を農村に送り返すことができれば、農村人口が増えさらに江戸の貧民の数も減るという考えです。

 

それを受けて実施されたのが人返しの法なのです。旧里帰農令は帰農奨励でしたが、人返しの法は強制的に農村へ送り返す法律です。また、旧里帰農令の時と同じように町への出稼ぎを制限しました。

 

人返しの法は強制力を持っていたので実施中はある程度の効果がありました。しかし、水野忠邦は上知令の失敗によりすぐに失脚してしまいます。人返しの法も最終的には大した成果を収めることなく終わってしまいました。

 

またさらに江戸時代後期になると町人主体の貨幣経済が中心になり農業生産主体の米中心の経済ではなくなります。水野忠邦は旧来の農業中心の経済を志していましたがそれは時代錯誤な政策だったという見方も強くあります。

 

まとめ

・旧里帰農令は1790年に寛政の改革の1つとして松平定信が実施した。

・旧里帰農令は天明の飢饉がきっかけ。

・旧里帰農令はあくまでも奨励策で強制力は持たない。

・人返しの法は1843年に天保の改革の1つとして水野忠邦が実施した。

・人返しの法は天保の飢饉がきっかけ。

・人返しの法は強制力をもつ。