軍部によって行われたクーデターの未遂事件「三月事件」。
軍部による政権奪取が行われる可能性があり、戦前の軍部が暴走していく一因となった事件とも言えます。
今回はこの『三月事件(さんがつじけん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
また、似たような事件である十月事件についても触れていきます。
目次
三月事件とは?
三月事件とは、1931年(昭和6年)3月に起きた陸軍軍部によるクーデター未遂事件のことです。
首謀者は陸軍の中堅幹部で構成されていた政治結社の桜会構成メンバーと右翼団体の大川周明と清水行之助らでした。
民衆を扇動することで議会を封鎖して最終的には浜口雄幸内閣を倒閣し、陸軍大臣であった宇垣一成を首相とすることを目的とした事件でした。
(浜口内閣 出典:Wikipedia)
実際には陸軍部内で意見が割れただけでなく、首相として担ぎあげられる予定であった宇垣の同意が得られなかったためクーデターは実行されませんでした。
クーデター未遂に対して軍紀に照らした適切な処分が行われるべきでしたが、軍部首脳部が計画に関与していた事もあって適切な処分は行われませんでした。
また、その後に生じた十月事件や二・二六事件などの軍部クーデター事件へと繋がるきっかけとなりました。
三月事件が起こった背景
第一次世界大戦の間は特需に沸いた日本でしたが、その後は度重なる恐慌などにより苦しむことになります。
軍縮などにより軍部の力が一時的に低下していた時代ですが、その一方で政党政治の行き詰まりなど、様々な要因が後の軍部台頭を招くこととなっていきます。
①政党政治の失敗と度重なる恐慌
吉野作造らが唱えた民本主義などを背景に、大衆の政治意識が一層高まった大正デモクラシーの中で、1925年に施行された普通選挙法により選挙権の拡大が行われ、政党政治が進んだ時代となりました。
しかし、その時代は前述した第一次世界大戦後に日本の輸出が減少した事で戦後恐慌を迎えます。
さらに1923年に起きた関東大震災による震災恐慌が起こります。
それだけでは終わらず、震災からの復興の中で手形の焦げ付きが生じたことで長期的な恐慌が生じ、金融恐慌となり経済的な冷え込みが起こりました。
更に追い打ちをかけるように1929年に生じた世界恐慌で日本の経済停滞は決定的となります。
浜口内閣が実行した金解禁によって、激しい恐慌である昭和恐慌が生じ、地方では東北地方の凶作なども相まって貧困が進み、娘の身売りが起こるなど別の社会的問題が生じる事となりました。
それだけではなく政党政治内では汚職がみられ、更には政党同士が足の引っ張りあいをした事によって政治的に大きな停滞がみられました。
このような状況から期待していた政党政治はそれほどの効果がなく、国民が不平不満を持つ状況であったといえます。
②度重なる軍縮による陸軍軍部の不平不満
第一次世界大戦後は、世界的に軍縮の流れが生まれていました。
1921年から1922年にかけて締結されたワシントン海軍軍縮条約を機に海軍の軍縮は進んでいきます。
帝国議会の要求や海軍の手前もあって陸軍も軍縮に着手せざるを得なくなりました。
1922年と1923年に陸軍初の軍縮である山梨軍縮が行われ、1925年には関東大震災後の千号復興費の工面と軍の再編を目的とした宇垣軍縮が行われます。
この宇垣軍縮は、三月事件で首相として担ぎあげられる可能性があった宇垣一成陸軍大臣によって行われました。
(宇垣 一成 出典:Wikipedia)
前述のとおり政党政治の不全感がある中だったので、陸軍軍部内でも様々な不満が生じていました。
③桜会の結成
三月事件の中心となる桜会が1930年9月に結成されました。
この組織は陸軍の中堅幹部が発起人でした。参謀本部の橋本欣五郎中佐、坂田義朗中佐らが中心となりました。
(橋本欣五郎 出典:Wikipedia)
陸軍大学校出身のエリート将校があつまる秘密結社として、政党政治の打倒と軍部独裁政権樹立を目的として暗躍します。
内部では破壊派・建設派・中間派で分かれていましたが、その中でも急進的な橋本らを中心としたグループが台頭します。
その中で右翼団体の代表で会った大川周明らと結びつき、国家転覆を計画する事となります。
(大川周明 出典:Wikipedia)
三月事件の発生と経過
三月事件は、実際に行われなかった軍部クーデターの計画でした。
桜会のメンバーである橋本ら陸軍中堅幹部と大川周明や清水行之助によって計画されました。
首謀者は桜会と民間右翼団体が中心でしたが、実際の計画には参謀本部の建川少将や二宮参謀次長(中将)、小磯軍務局長らの賛同があったとされています。
①三月事件の計画
右翼団体である大行社(代表:清水)が警視庁を襲撃した後、大川と清水により参謀本部の橋本中将から借り受けた擬砲弾300発を使用して東京で動乱を起こす計画でした。
そして、社会民主党の亀井貫一郎・赤松克麿らによって大衆を動員し、開催中の帝国議会へ群集を押しかけさせるとともに、陸軍将校が議会封鎖して議会保護を理由として浜口内閣を辞任させるつもりでした。
そして、宇垣一成陸相を首相とするプランでした。
破壊計画は主に大川周明が立案し、それに陸軍の永田鉄山軍事課長や岡村寧次補任課長ら陸軍の上層部が参画していました。
②計画の挫折
前述した三月事件でしたが、軍部の中でも時期尚早として反対する意見がみられていました。
また、宇垣一成自身も浜口雄幸首相が辞任することで首相になりうる可能性があったため三月事件の計画実行に対して躊躇していたとされています。
これは浜口雄幸首相が狙撃事件により辞職する可能性が高かったためです。
また計画自体も綿密さがなく、大衆を1万人集めるという計画がなされていましたが、明確な根拠はなく実行自体が困難な計画でした。
そのため結核予定日直前に撤回される事となりました。
なお、クーデター計画撤回後も右翼団体の清水・大川らは単独で実行を考えていたようでしたが、参画した人間による交渉によって最終的には行われる事はありませんでした。
三月事件のその後
三月事件後、日本は少しずつ戦争への歩みを始めます。
陸軍台頭の嚆矢ともいえる事件であり様々な影響がみられました。
①軍部の拡大路線への転向
三月事件によって統制派と呼ばれる陸軍の一派はクーデターによる軍事政権の設立は困難であると考えます。
もともと軍事政権設立後に考えていた満蒙での陰謀計画へと切り替え、1931年、関東軍が柳条湖事件を契機として満州事変を引き起こします。
なお、首相として担ぎあげられる予定であった宇垣一成はその後朝鮮総督となります。
その後1937年に組閣の大命降下がおりますが、軍部大臣現役武官制によって組閣流産となり、最終的には総理大臣となる事なく終えます。
②クーデター計画の乱立
三月事件はクーデター計画であり、国家の安全を脅かすものですので本来は軍紀に照らした厳正な処分が必要でした。
しかし、陸軍幹部クラスが参画していた事もあって処分が適切に行われず、むしろ陸軍の緘口令によって事件が隠される事となりました。
これをきっかけとして様々なクーデター事件が昭和前期で計画されます。
後述する十月事件、陸軍士官学校事件、そしてそれらの集大成ともいうべき二・二六事件が生じる事となりました。
そして、軍部の暴走が始まり戦争への階段を進んでいく事となります。
③十月事件の発生
三月事件後も桜会は強い影響力を保持していました。
そのような中で1931年の9月には柳条湖事件が発生して満州事変が起こります。
当時の犬養内閣は外務大臣の幣原喜重郎らを中心として不拡大方針とします。
しかし陸軍の急進派はこの決定を不服として、三月事件にも関与した大川周明や「日本改造法案大綱」で知られる国家社会主義者の北一輝らと結託しクーデターが計画されます。これが十月事件です。
十月事件では軍部を動員し、首相らを暗殺。そして現内閣を倒閣し、荒木中将を首相とした軍事政権の樹立を計画していました。
しかし、陸軍省・参謀本部の中枢部に情報が洩れたことで計画の中心人物が憲兵隊により検挙されクーデター計画は未遂に終わります。
ただ結果的に桜会は解体させられる事となりましたが、十月事件においても責任追及があいまいとなり主導者の謹慎や転勤程度となりました。
この事件後、結果的に内閣の倒閣は達成されます。
それに加え右翼団体の活動が活発化していく事となり、浜口内閣の閣僚であった井上準之助や三井財閥の総裁であった団琢磨を暗殺した血盟団事件や犬養毅首相を襲撃し殺害した五・一五事件へと繋がっていきます。
まとめ
✔ 三月事件は軍部によるクーデター未遂事件である。
✔ クーデターの計画は桜会を中心としていたが、民間右翼団体や陸軍の上級将校も参画していた。
✔ 三月事件の背景には、昭和前期に行われた政党政治の失敗と軍縮による陸軍の軍備低下があった。
✔ 事件は未遂に終わったが、処分はなくその後のクーデター事件が乱発するきっかけとなった。
✔ 三月事件の首謀者であった桜会は事件後も影響力も持ち、十月事件と呼ばれるクーデター未遂事件を再度起こした。