池田屋事件と言えば、かの有名な階段落ちの場面を思い浮かべることができる人も多いでしょう。

 

しかし、寺田屋事件や近江屋事件と併せて考えると出来事の内容の区別がつかなくなってしまうのではないでしょうか。

 

ここでは、この3つの事件の違いについて理解できるように詳しくみていきましょう。

 

池田屋事件・寺田屋事件・近江屋事件の違い

 

池田屋事件、寺田谷事件、近江屋事件の違いを知るために起きた時期や関係した人物、概要を整理してみましょう。

 

それぞれの違い

 池田屋事件 

186465日 長州・土佐の尊王攘派浪士に対して新選組が襲撃した事件のこと。

 

 寺田屋事件(第一次) 

1862423日 薩摩の過激な尊王攘夷派を薩摩藩主側が制圧した事件のこと。

 

 寺田屋事件(第二次) 

1866123日 坂本龍馬に対して伏見奉行所の役人が襲撃した事件のこと。

 

 近江屋事件 

18671115日 坂本龍馬が暗殺された事件のこと。

 

事件が起きた時系列の順番は・・・

 

第一次寺田屋事件→池田屋事件→第二次寺田屋事件→近江屋事件

 

ということになり、寺田屋事件は2回あったということがわかりますね。

 

では、それぞれの事件の詳細をみていきましょう。

 

池田屋事件について詳しく

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(池田屋跡 出典:Wikipedia

①池田屋事件が起こった背景・経過

池田屋事件は、196465日、長州藩や土佐藩の尊王攘夷派の武士を新選組が京都三条の旅館「池田屋」で襲撃した事件のことです。

 

尊王攘夷とは、天皇を敬って政治の中心とし、外国を受け入れないという思想です。

 

 

池田屋事件は尊王攘夷の思想を持つ派とその対極にある派の勢力争いが背景にあると言えます。

 

池田屋事件が起きるまでの経過で最も重要なのはペリー襲来です。ペリー襲来当時、徳川家による幕政が衰退してきていた日本は大老職を置き井伊直弼を配しました。

 

井伊直弼は開国派であったため尊王攘夷派の人々を処罰していきました(=安政の大獄)

 

そのため尊王攘夷派による幕府に対しての反発やテロ行為が増えていったのです。

 

これに対し、薩摩、会津藩が結託し尊王攘夷派に対抗する動きが加速していきました。

 

次第に追い詰められていった尊王攘夷派は、「京都に火を放ち、天皇を拘束する」というとんでもない計画をもくろみます。

 

しかし、この計画は新選組によって計画段階で知れることとなり、池田屋で会合を開いていた尊王攘夷派を討伐するに至ったのでした。

 

③池田屋事件のその後

池田屋事件は、その時代背景から幕府側と尊王攘夷派の勢力争い、それは開国や外国との交流が進むかのターニングポイントでした。

 

池田屋事件で活躍した新選組は幕府に世間に認められる存在となりました。

 

そして、幕府が進める開国が一気に進められていったのです。

 

寺田屋事件について詳しく

(現在の寺田屋 出典:Wikipedia

 

 

寺田屋事件は池田屋事件を挟んで第一次、第二次の2回ありました。それぞれについて説明していきます。

 

①第1次 寺田屋事件が起こった背景・経過

1862423日に起きた薩摩の尊王攘夷派が薩摩藩・島津久光に弾圧された事件寺田谷騒動とよばれることもあります。

 

当時の薩摩藩主は島津久光の息子である島津忠義でしたが、政治の実権を握っていたのは父の島津久光でした。

 

島津久光は亡き兄、島津斉彬の意思を継ぎ朝廷や幕府と共に薩摩藩が国政を執ること目指しており、幕府に対する反発心は持っていませんでした。

 

そのため、薩摩藩の中の尊王攘夷派の武士たちと対立関係となっていきました。

 

尊王攘夷派の動きを止めるよう、朝廷は島津久光に対して尊王攘夷派の武士の排斥を命じました。

 

しかし、それを知った薩摩の尊王攘夷派である有馬新七らが関白や京都所司代などの幕府側の重役の暗殺を計画し、寺田屋に集まりました。島津久光は大久保利光らを遣い説得を試みますが受け入れられず、とうとう寺田屋事件が起きてしまいます。

 

第一次寺田屋事件は薩摩藩同士の斬り合いとなり尊王攘夷派が鎮圧されました。

 

②第1次 寺田屋事件のその後

第一次寺田屋事件によって朝廷の命令を守った島津久光は朝廷から高い評価を得ることができ、幕政に関与できる立場にまでなることができました。

 

また、この事件によって、尊王攘夷の思想の高まりは一旦はおさまりをみせるということになったと言えます。

 

③第2次 寺田屋事件の経過

第2次寺田屋事件とは、1866123日に薩長同盟の会談後に寺田屋に宿泊していた坂本龍馬に対し、伏見奉行所の役人が襲撃した事件です。

 

寺田屋遭難とよばれることもあります。

 

1866123日、京都において薩長同盟が結ばれたその日、坂本龍馬は長府藩の三吉慎蔵と共に伏見の寺田屋に宿泊していました。

 

 

深夜になって寺田屋は伏見奉行所の捕り方に包囲され坂本龍馬の確保若しくは暗殺のため襲撃を決行。

 

後に坂本龍馬の妻となるお龍の機転で襲撃を察知した坂本龍馬はと三吉慎蔵はそれぞれ短銃と手槍で応戦。2人は屋根伝いに脱出に成功したのでした。

 

難を逃れた2人は薩摩屋敷に助けを求め、保護されました。

 

④第2次 寺田屋事件のその後

薩摩屋敷に保護され、傷を負っていた坂本龍馬は西郷隆盛の計らいとお龍の看護によりやがて京都の薩摩屋敷に移りました。

 

この事件の直後にお龍は坂本龍馬の妻となりました。

 

坂本龍馬とお龍は日本で初めて新婚旅行をしたとされていますが、この寺田屋事件で負った傷を癒すために温泉場を巡ったことが新婚旅行と捉えられているようです。

 

実際にはその道中、西郷隆盛や三吉慎蔵も共にいたという話もあります。

 

近江屋事件について詳しく

(現在の近江屋跡地 出典:Wikipedia

近江屋事件が起こった背景

近江屋事件とは、18671115日、坂本龍馬が暗殺された事件のことです

 

薩長同盟に尽力するなどの偉業を成し遂げた坂本龍馬ですが、幕府をはじめとした多方面から命を狙われる存在でした。

 

寺田屋事件で命を狙われた坂本龍馬は、その後の滞在場所を近江屋にしていました。

 

命を狙われているということは自身も周囲も知っていましたが、安全な場所である土佐藩邸や薩摩藩邸に身を寄せることはせず近江屋事件が起きてしまいました。

 

坂本龍馬が土佐藩邸に入らなかった理由としては、過去に脱藩したにも関わらず許されている身であり土佐藩の家老の中には坂本龍馬を良くは思っていない者もいたので龍馬自身が遠慮していたとされています。

 

また、薩摩藩邸に入らなかった理由としても、薩摩藩邸に入れば土佐藩邸に対しての当てつけのように捉えられるのではないかという思いがあったようです。

 

近江屋事件の経過

坂本龍馬暗殺のその日、龍馬は風邪をひいて近江屋の2階で休んでいたとされています。

 

近江屋には龍馬の用心棒がいましたが、襲撃された時は龍馬が用事を言いつけ使いに出していたため不在でありました。

 

また、近江屋事件で坂本龍馬と共に襲撃された中岡慎太郎は龍馬と同じく土佐藩出身。近江屋に龍馬を訪ねてきていたとされています。

 

中岡慎太郎は争いをしても討幕を望むという思想をもっており、武力に頼りたくないという坂本龍馬と思想は異なっていましたが、「討幕」という意味では坂本龍馬の同志でありました。

 

近江屋事件のその後

近江屋事件で坂本龍馬を暗殺した犯人は歴史上、諸説あり新選組が有力とされていましたが、明治に入ってから元京都見廻組の関係者の自白により、京都見廻組の関与が信ぴょう性が高いようです。

 

第一次寺田屋事件で坂本龍馬は伏見奉行所の役人を拳銃で殺傷していることもあり、幕府側に命を狙われる理由もあったからです。

 

まとめ

 池田屋事件は1864年に長州・土佐の尊王攘派浪士に対して新選組が襲撃した事件のこと。

 寺田屋事件は2回あった。

 寺田屋事件(第一次)は1862年薩摩の過激な尊王攘夷派を薩摩藩主側が制圧した事件のこと。

 寺田屋事件(第一次)は薩摩藩内の事件で寺田屋騒動と呼ばれることもある。

 寺田屋事件(第二次)は1866年坂本龍馬に対して伏見奉行所の役人が襲撃した事件のこと。寺田屋遭難と呼ばれることもある。

 近江屋事件は1867年に坂本龍馬が暗殺された事件のこと。