【沖縄の人頭税とは】わかりやすく解説!!意味・琉球王国での人頭税廃止運動など

 

江戸時代から明治時代初めにかけて、沖縄の先島諸島(宮古・八重山)には、独自の人頭税が存在しました。

 

その負担はきわめて重く、島民たちの悲劇は現在でも語り継がれています。

 

今回は、そんな『沖縄の人頭税』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

沖縄の人頭税とは?

 

15世紀に成立した琉球王国は、17世紀初めに薩摩藩の支配下に入り、同藩から重税を課されるようになると、先島諸島(宮古・八重山)の島民たちに厳しい人頭税を課すことで、財政難を解消しようとしました。

 

人頭税を課すにあたっては、琉球王国は戸口調査をした上で戸籍を作り、1550歳の島民を四つの年齢グループに分け、それぞれのグループについて各人一律の税を定めました。

 

1879年の琉球処分後も、人頭税は維持されましたが、189394年に人頭税廃止運動が起こったことで、1903年に人頭税は廃止されました。

 

人頭税の意味

(琉装の男性たち 出典:Wikipedia)

 

人頭税とは、一般に「人民一人一人に対して一律に同額を負担させる税」のことです。

 

「じんとうぜい」または「にんとうぜい」と読みます。

 

この税は、本人が税を払えるかどうかに関わらず、一律に課されるため、一般的には貧しい者ほど負担を大きく感じる傾向があります。

 

人頭税の例は、古代から近世にかけて世界中で見られます。

 

例えば、古代ギリシア・ローマでは、市民権をもたない外国人に対して人頭税が課されることがありました。

 

また、中世ヨーロッパでは、農奴に対して人頭税が課せられました。

 

他方、中国では秦の時代から人頭税を基準にして租税の仕組みが考えられてきました。

 

唐の時代には、租庸調という租税システムが完成しますが、その基礎にあったのが、人民一人一人に対して一律に税を課す人頭税の発想でした。

 

 

他にも、古代インドのカラや、イスラーム世界のジズヤなどが、人頭税の一種とされます。

 

当時の時代背景

(首里城 出典:Wikipedia

①琉球王国の成立

14世紀から15世紀初めにかけて、琉球には3つの小国が存在していましたが、1429年に中山王・尚巴志がこれらを統一し、琉球王国を成立させました。

 

琉球王国は、中国(明)に朝貢し、日本・中国・東南アジアの交易の中継地となることで繁栄しました。

 

②琉球侵攻

ところが、1609年、江戸幕府から琉球征伐の許可を得た薩摩藩は、3000人の軍勢を率いて奄美大島、徳之島、沖永良部島を次々に征服し、同年4月に沖縄本島にある王城・首里城を陥落させました。

 

これを受けて、琉球王国の国王・尚寧は降伏し、琉球王国が薩摩藩の支配下に置かれることを認めました。

 

以上が琉球侵攻と呼ばれる事件です。

 

これにより、琉球王国は薩摩藩に従属しつつも、形式上は独立国として中国への朝貢を続ける、という二重支配を受けるようになりました。

 

また、それまで琉球王国の領土だった奄美諸島は、薩摩藩の直轄地となりました。

 

 

沖縄の人頭税の詳細

 

琉球王国の人頭税は、琉球侵攻後に薩摩藩から課された重税に対応するために制度化されたものです。

 

①人頭税の対象

人頭税は、正頭(しょうず)と呼ばれる、数え1550歳の男女一人一人に対して課されました。

 

数え15歳未満の者や50歳を超える者、心身障害者は、頭迦(ずはずれ)と呼ばれ、課税対象から外されました。

 

②税率の決め方

この人頭税が制度化されたのは1637年でした。

 

制度を始めるにあたり、前年の1636年に琉球王国は戸口調査を行い、その結果にもとづいて、全国の正頭を次の4つのグループに区分しました。

 

4つのグループ

  • 上(数え21~40歳)
  • 中(数え41~45歳)
  • 下(数え46~50歳)
  • 下々(数え15~20歳)

これに加えて、それぞれの村の耕地の状況も調査し、村位と呼ばれる村の格付けを、上・中・下の3段階で定めました。

 

琉球王国はこの二つを勘案した上で、人頭税の税率を決定しました。

 

③実際の運用

琉球王国の人頭税は、琉球全域で課されました。しかし、実際の運用は、地域によって差がありました。

 

例えば、沖縄地域では、人頭税とはいっても、夫遣(ぶづかい)と呼ばれる労役を一律に課すというだけのゆるやかな運用が行われました。

 

ところが、先島諸島(宮古・八重山)では、米や粟で納める税がありました。

 

しかも、その一部は現物ではなく、反物に替えて納めるように義務づけられていました。

 

こうした反物の分の課税は、主に女性に対する人頭税で、品質検査が厳しかったとされます。

 

現在、先島諸島の特産品として知られている、宮古上布、八重山上布、久米島紬は、その名残です。

 

これに加えて、現地の役人たちによる中間搾取や強制収奪も横行し、島民たちは重税に苦しみました。

 

④人頭税の起源

琉球における人頭税がいつから始まったのかについては、議論が分かれています。

 

少なくとも1637年に制度化される以前にも、人頭税があったと考えられています。

 

現在の有力な説によれば、人頭税の伝統は、琉球王国成立以前の古琉球にまでさかのぼることができるそうです。

 

人頭税石

(人頭税石 出典:Wikipedia

 

先島諸島の人頭税に関連すると考えられてきた遺物として、沖縄県宮古島平良字荷川取には、「人頭税石」と呼ばれる、高さ143センチメートルほどの石柱が現存しています。

 

宮古島の言い伝えによれば、琉球王国の時代、島民の子供たちはこの石柱と同じ高さの背になると、人頭税が課されるようになったとされています。

 

しかし、実際には人頭税は身長ではなく年齢によって課される対象が決まっていましたし、琉球王国はそのために戸口調査をして、島民たちの年齢を把握していたはずです。

 

それゆえ、人頭税を課すかどうかを決めるために、人頭税石で島民たちの背丈を測る必要があったとは考えにくいです。

 

他に、霊石信仰の対象であったとする説や、農作業のための気象観測に使われたとする説も唱えられていますが、現在でも決定的な証拠は見つかっておらず、何に使われた石柱なのかははっきり分かっていません。

 

人頭税廃止運動

①琉球処分

18681月の王政復古により成立した明治新政府は、1871年に各地の藩を府県に置き換える廃藩置県を行いました。

 

そして、その延長線上で、薩摩藩に従属していた琉球王国も、明治政府の支配下に置くべく、琉球処分と呼ばれる強制的な改革が行われました。

 

 

琉球処分では、まず1872年に琉球藩が設置されます。

 

続いて、1874年に明治政府は宮古島の島民が台湾の住民に殺害された事件に介入し、台湾に派兵しました。

 

これを台湾出兵と言います。

 

 

明治政府はこの派兵をきっかけに、中国(清)に「琉球が日本の領土であること」を認めさせました。

 

そのうえで、翌1875年には、琉球処分官・松田道之を現地に派遣し、彼を通して琉球王国の首里王府に、琉球処分の具体的な内容を提示しました。

 

その中には・・・

  • 中国(清)への朝貢を禁ずること
  • 中国の年号を使用するのを廃止すること
  • 本土の他の県と同様の制度改革を受け入れること
  • 軍隊の駐留を認めること

などが含まれていました。

 

琉球王国は当初この処分の受け入れを拒否しましたが、1879年に明治政府は軍隊と警察の力を背景に、琉球処分を強行し、沖縄県の設置を一方的に宣言した上で、首里城の明け渡しを命じました。

 

結局、琉球王国の国王・尚泰は、この明け渡しに応じ、琉球王国は滅亡しました。

 

これにより、琉球は名実ともに日本の一部となりました。

 

②旧慣温存政策

琉球処分では、明治政府の支配下に入った琉球は、他の府県と同様の制度改革を受け入れることを定めていました。

 

しかし、実際には琉球の旧支配層の反発が強かったため、明治政府は中央から役人を派遣したものの、当面の間は琉球王国時代の制度を維持するという方針が採用されました。

 

この方針を旧慣温存政策と呼びます。

 

これにより、明治政府は琉球の旧支配層の反対運動を防ぎましたが、その反面、琉球王国時代の土地制度や租税制度は温存されました。

 

当然、人頭税も存続しました。

 

③人頭税廃止運動

琉球処分後も人頭税に苦しんだ宮古の島民たちは、糖業技師・城間正安と実業家・中村十作の2人に率いられて、人頭税廃止運動を始めました。

 

島民たちはまず、1892年に沖縄県知事に着任したばかりの奈良原繁に、地方役人の削減や人頭税の廃止を求める請願を行いました。

 

しかし、旧支配層が反発したため、請願は保留とされていまいます。

 

島民たちはこれに懲りずに、何度も請願を繰り返しますが、受け入れられる様子が全く見られないため、今度は中央政府に直訴しようとします。

 

そしてついに、1893年、城間と中村、そして農民代表2人の計4人が、旧支配層や警察の妨害に遭いながらも上京して内務大臣・井上馨に建議書を手渡し、宮古の島民たちの窮状を訴えることに成功しました。

 

これを受けて、1895年の第8回帝国議会で、人頭税廃止要求の建議書が通過しました。

 

④人頭税の廃止

明治政府は1899年、沖縄県土地整理法を制定し、ついに沖縄県でも地租改正に着手しました。

 

 

大蔵大臣直轄の役所・臨時沖縄県土地整理事務局が、同法にもとづき、土地の所有権を確定し、土地の測量と地価の査定を行いました。

 

この作業は、1902年に先島諸島(宮古・八重山)で行われ、1903年には沖縄本島とその他の離島でも行われ、同年中に完了しました。

 

これにより、沖縄県全土での租税は、本土と同じく地租が中心となり、人頭税は廃止されました。

 

まとめ

 琉球王国は1609年の琉球侵攻により、薩摩藩の支配下に入った。

 薩摩藩からの重税に対応するため、琉球王国は先島諸島(宮古・八重山)の島民たちに厳しい人頭税を課した。

 人頭税の課税にあたっては、戸口調査にもとづき、15~50歳の島民を四つの年齢グループに分け、それぞれのグループについて各人一律の税を定めた。

 1879年の琉球処分後も、人頭税は維持された。

 1893~94年の人頭税廃止運動をきっかけに、1903年に人頭税は廃止された。