【前九年の役とは】簡単にわかりやすく解説!!反乱が起こった背景や経過・その後など

 

10世紀頃から、朝廷の軍事力が低下する中、武士の実力を見せつけることとなる平将門の乱や藤原純友の乱などの反乱が相次ぎました。

 

11世紀に入っても反乱は続き、1028年には平忠常の乱がおきます。

 

この乱とあわせて、源氏の東国進出を決定づけたのが前九年の役(ぜんくねんのえき)でした。

 

今回は、この「前九年の役」について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

前九年の役とは?

(源 頼義 出典:Wikipedia)

 

 

前九年の役とは、平安時代後期の11世紀、陸奥国で起こった反乱のことです。

 

陸奥国の有力豪族である安部氏が反乱をおこし、長期戦の末に源頼義が出羽の豪族清原氏の助けを得て討伐しました。

 

(※前九年の役は「前九年合戦」と表記されることもあります)

 

戦いの発端は、11世紀半ばに陸奥で強大な勢力をもつ安倍氏が朝廷への納税の義務を果たさなくなったため、1051年に陸奥守「藤原登任(なりとう)」と衝突することによって始まりました。

 

乱は長引くも清原氏の参戦によって一気に収束に向かいます。

 

陸奥守となっていた源頼義の活躍は、平忠常の乱を鎮めた父についでの源氏の活躍となり、源氏の東国進出が決定的なものになりました。

 

前九年の役が起こった背景

 

10世紀頃から豪族や有力農民が武士として台頭し、武士団をつくると大規模な反乱をおこすようになります。

 

これらの乱で武士は力を見せつけることとなり、また、朝廷にとっても武士は欠かせない存在になっていった中でおこったのが前九年の役でした。

 

①武士の台頭

10世紀に入ると、地方の豪族や有力農民が勢力を拡大するために武装して、兵(つわもの)と呼ばれるようになります。

 

この兵は一族や郎党を従えて互いに争ったり、ときには国司に反抗することもありました。

 

畿内付近では、成長した豪族が武士と呼ばれるようになり、朝廷の武官となったり貴族に武芸をもって仕えるようになっていきます。

 

さらには、滝口の武士などの宮中の警備にあたる重職を担うこともありました。

 

武士となった勢力は、各地で一族の結びつきを強めながら次第に拡大し武士団を形成。

 

中央から離れた地域では、旧来の豪族のほか任地に土着した国司の子孫の多くが武士団の中心となりました。

 

②武士の大規模な反乱

東国は良馬を産することもあり、武士団の成長が著しい地域でした。

 

その東国で勢力を広めたのが、桓武天皇の曽孫の高望王から平姓を与えられた桓武平氏でした。

 

高望王の孫にあたる平将門は、下総を根拠地にして一族と私闘を繰り返すうちに反乱に発展していきます。(平将門の乱

 

 

将門は東国の大半を征服し新皇(しんのう)を称するに至りますが、父国香を殺された平貞盛らによって倒されます。

 

瀬戸内海では、藤原純友が海賊を率いて反乱をおこします。(藤原純友の乱)

 

伊予の国府を奪うと淡路から大宰府まで広範囲に勢力を広げましたが、小野好古(よしふる)や清和源氏の祖である源経基らによって討たれ乱は鎮圧されます。

 

前九年の役の直前に起きたのは、平忠常の乱でした。

 

 

平氏は将門の乱以降も関東に勢力を保ち続けており、もと上総の国司であった平忠常が乱をおこしますが、源頼信によって乱は鎮められます。

 

③武士の位置づけの変化

これらの反乱などから武士の力が認知されるようになり、中央貴族の血を引くものを棟梁として武家を形成し勢力を伸ばしていくようになりました。

 

とくに、源経基の子の満仲は摂津を根拠に摂関家に仕えていましたが、さらにその子の頼光頼信兄弟は摂関家に近づくことで摂関家の保護を得て棟梁としての権勢を強めていくことになります。

 

こうして、前九年の役がおこるころには、武士団が各地で衝突や反乱をおこし、源氏が重職として活躍する流れとなっていました。

 

前九年の役の戦いの流れ

 

陸奥で強大な勢力をもつ豪族の安倍氏が国司と争うと、源頼義にいったんは屈しますが再び乱をおこします。

 

長期戦となりますが、頼義は子の義家や東国の武士とともに安倍氏と戦い、さらには、豪族清原氏の協力を得て安倍氏を滅ぼしました。

 

①鬼切部(おにきりべ)の戦い

陸奥の有力豪族であった安倍氏は、陸奥国奥六(おくろく)郡に柵を築いて独立的な勢力をつくりあげていました。

 

1051年に、安倍氏が朝廷への納税をしなくなったことから、陸奥守藤原登任が懲罰のため数千の兵を向けると鬼切部で争いとなります。

 

登任側に国司軍などの加勢はあったものの安倍氏が勝利し、登任は更迭。その後は河内源氏の源頼義が陸奥守となりました。

 

すると、安倍氏はいったん頼義に服することになります。

 

1053年には頼義は鎮守府(ちんじゅふ)将軍となります。

 

②阿久利川事件

頼義が陸奥守任期満了の年の1056年、密使による情報に端を発し安倍氏と朝廷との戦いが再開されることとなりました。

 

さらに、頼義は讒言からから平永衡を殺害すると、身の危険を感じた藤原経清は安倍軍に属することになります。

 

1057年、頼義は安倍氏挟撃策を講じると、津軽の安倍富忠を味方に引き入れることに成功し、頼時を死に追いやります。頼時の跡は貞任(さだとう)が継ぐことになりました。

 

③黄海(きのみ)の戦い

同年11月、頼義は陸奥国府から安倍軍が立て籠もる河崎柵に向けて出撃するも、対する安倍軍は2倍の兵力を集めます。

 

また、頼義の国府軍は兵力で劣るばかりか、疲弊していたうえに物資も乏しい状況でした。

 

さらには慣れない土地柄での風雪にも悩まされ、黄海で激突すると安倍氏の大勝に終わります。

 

頼義は義家の活躍により辛くも逃げのびますが、多くの忠臣を失う大打撃を受けることになりました。

 

大敗による損害から、頼義は軍事行動を起こすには兵力の回復を待つしかありませんでした。

 

この間、隣国の出羽守源斉頼に援軍を要請するものの援軍が来ることはなく、逆に安倍氏は勢力を広め、国へ納めるべき徴納物を奪うなど頼義をあざ笑うかのような行動に出ます。

 

④清原氏の参加

変わらず安倍氏の勢力は増す中で、これまでの戦で戦力を失った頼義は関東、東海、畿内から苦心して兵力を集めます。

 

そのころ、頼義は中立を保っていた出羽の豪族清原氏の懐柔に成功すると、族長の清原光頼の弟武則を総大将とする軍勢が派遣されることになりました。

 

これにより陣を七つの陣に整え、朝廷側の兵力はおよそ1万人のうち頼義自身の軍勢はおよそ3000人ほどでした。ここから官軍の反抗が始まり、北上しながら柵をひとつひとつ制圧していくことになります。

 

安倍軍の拠点である小松柵の戦いが始まります。小松柵は天然の要害でしたが、官軍の将や直属の武将たちの活躍もあり、新制官軍の初勝利となります。こののち貞任の奇襲を受けますが、6時間続く戦闘の末に迎撃しました。

 

北へと敗走する安倍軍は、衣川の関に籠ります。衣川の関も要害として知られる柵でしたが、武則の指示で潜入した武将が火を放ち安倍軍を大混乱に陥れます。さらに官軍が攻め込むと衣川の関を制圧しました。

 

さらに北に退いた安倍軍は鳥海柵を通り越し、本拠地の厨川柵まで退いて守りを固めます。ところが、官軍は風を利用して火をかけると、厨川柵を焼き上げました。

 

経清が斬首され、安倍氏は深手を負った貞任が亡くなり滅亡し、長きに渡る戦が終わります。

 

前九年の役のその後

 

1063年2月に頼義は朝廷に報告すると、頼義は伊予守に任じられます。

 

被害も大きく年月もかかったことを考慮すると、高い評価となる論功でした。

 

ただ、頼義は郎従への恩賞が出なかったことには納得できず、続いて交渉を続けます。

 

平忠常の乱を鎮めた頼信に続き、その子の頼義が前九年の役を鎮めたことにより、源氏の東国進出は確たるものとなります。

 

この後の後三年(ごさんねん)の役では、頼義の子の義家が活躍し、さらに源氏は武士の棟梁としての地位を固めていきました。

 

まとめ

 前九年の役とは、平安時代後期の11世紀に陸奥国で起こった反乱のこと。

 安倍氏が税を納めない状態になったため、陸奥守藤原登任が兵を向けて鬼切部で戦闘となったことが始まりで、安倍氏はいったんは服するも再度反乱を起こし長期戦となった。

 頼信、頼義、義家と三代にわたり大きな戦で中心となって活躍したこともあって、源氏の東国進出が決定的なものになり、さらには武士の棟梁としての地位を固めていった。