江戸時代中期に幕府は財政難に陥り、将軍直属の家臣である旗本と御家人たちも生活難となりました。そこで出されたのが棄捐令です。

 

今回は、そんな『棄捐令(きえんれい)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

棄捐令とは?

棄捐令とは、江戸時代に財政難になった旗本や御家人を救うために出された法令のことです。

 

旗本や御家人は、生活苦を補うために札差(ふださし)から借金をしていました。その札差に債権放棄や債務繰延べを命令した、幕府による武士救済令です。

 

棄捐とは、「捨てる」という意味ですが、単純にいらないものを捨てるということではなく、本来捨てたくはないけれど、投げうとう、与えようという意味があります。

 

棄捐令は、寛政の改革天保の改革の一つとして発布されました。

 

天保の改革では、無利子年賦返済令という名前で出され、文久には、札差仕法改革として3度目の棄捐令が出されました。

 

さらに、松江藩や加賀藩、佐賀藩でも行われました。

 

棄捐令が出来た背景・目的

 

 

幕府が棄捐令を出した背景には、旗本・御家人の制度、またこの制度によって生まれた札差という商人の存在がありました。

 

①旗本・御家の存在

旗本と御家人は、将軍直属の家臣でした。そのため、どちらも江戸に定住していました。

 

大名のように参勤交代で江戸にやってくるという移動はなかったのです。(※旗本は石高一万石未満で、大名は一万石以上です)

 

旗本は将軍に直接会うことができ、江戸城の警備や将軍の警護、町奉行勘定奉行の役人など幕府の役職を任されていました。一方、御家人は将軍に直接会うことはできませんでした。御家人には、幕府財政の監査という事務仕事から掃除の者や駕籠の者といった雑用係がいました。

 

旗本と御家人の財政基盤は弱く、江戸幕府が始まって30年後の徳川家光時代には、その窮乏ぶりが問題視されていました。

 

そして、旗本と御家人は江戸に住むことが義務付けられていたため、その生活は消費する一方であり、財政難になると借金を重ねるという事態に陥ったのです。

 

②札差(ふださし)とは

それでは、旗本や御家人にお金を貸していた札差とは、どのような人たちだったのでしょうか。

 

札差とは、蔵米取りの旗本や御家人の代理として、蔵米を受け取り、それを米商人に販売して換金を請け負った商人です。

 

また、蔵米を担保にした金貸し業も行い、巨万の富を得て豪華な生活をする者もいました。

 

旗本と御家人は、お給料として幕府からお米(蔵米)を貰っていました。ところが江戸での生活では貨幣が必要だったのです。

 

そのため、この札差によって蔵米を換金して生活していました。

 

札差は換金する際に、手数料を受け取って儲けていたのです。

 

棄捐令の内容

(松平定信 出典:Wikipedia

①寛政の改革時に出された棄捐令

寛政の改革は1787年から1793年に、老中松平定信によって行われました。

 

この棄捐令では、1784年以前の借金は免除し、それ以後の借金は今までの利子18%から6%に引き下げ、長期に渡り返済をするということを決めました。

 

それにより、棄捐金額は札差88人の合計でおよそ金119万両となり、幕府の年間支出とほぼ同じ金額だったということです。

 

棄捐令の序文には、札差たちが旗本や御家人が借金で生活に苦しんでいるにも関わらず、高額の利子や利息で富を得て、豪奢な暮らしをして風俗を乱し、武士たちに対して無礼な態度を取っていることを戒める内容が書かれていました。

 

③天保の改革時に出された棄捐令

1843年には、天保の改革の一環として棄捐令が無利子年賦返済令という名目で出されました。

 

 

札差が旗本と御家人に貸し出してまだ返済されていない借金はすべて無利子にする、また借金の元金を返済するのには20年かけるということが決められました。

 

また、給料に比べて高額の借金をしている者に対しては、さらに返済の決まりを軽くすることを命令しました。

 

この法令を出した背景には、寛政の改革に出された棄捐令の後、一時期札差は勢いをなくしていましたが、再び旗本と御家人の借金が増えて札差の勢いを盛り返してきたという状況がありました。

 

④文久に出された棄捐令

1862年に、三度目の棄捐令が発布されます。

 

そこでは、無利子年賦返済令の後にも増え続けた旗本と御家人の借金の利子を年間10%から7%に引き下げました。

 

返済期間は、金額に応じて10年間や20年間にするという内容でした。

 

棄捐令の影響

 

棄捐令は、武士の借金を帳消しするという目的でしたが、どのような影響があったのでしょうか。

 

①寛政の棄捐令の後

寛政の改革により発布された最初の棄捐令では、札差が大きな打撃を受けて閉店同様の店が多く見られました。

 

 

また、旗本や御家人にお金を貸しても利益が出ないとなると、お金を貸さない札差が出てきました。

 

借金が帳消しされた旗本や御家人は、当初は喜んでいましたが、しばらくすると借金ができずに生活に困窮し始めました。

 

逆に、棄捐令に不満を持つ旗本や御家人も出てきて、中には追い剥ぎなど強盗をする下級武士も出始めたということです。

 

②天保の棄捐令と文久の棄捐令の後

天保の改革で出された棄捐令の後、江戸の札差91軒のうち49軒が店を閉じてしまいました。そして、借金の返済金だけは受け取るが金は貸さないという態度に変わったのです。

 

結局、幕府が札差に資金を渡して開業するようにと通達を出して、閉店した49軒のうち38軒が事業を再開したと報告されています。

 

文久に発布された棄捐令では、特に札差の動きは見られませんでした。前回2回の棄捐令と比べると厳しい内容でなかったのと、この法令により旗本と御家人の負担はかえって増えるという考えからでした。

 

棄捐令と徳政令の違い

 

 

棄捐令以前に、鎌倉から室町時代にかけて朝廷や幕府が債権者と金融業者に対して債権を放棄する、つまり借金を帳消しにするようにという法令がありました。これを徳政令と言います。

 

 

ただ、徳政令は借金を帳消しにするだけが目的ではなく、朝廷や幕府など政治を司る者が貧民を救済するという観念から作られた法令でした。

 

一方、棄捐令は旗本と御家人を救うことを目的として、かれらの借金を帳消しにすることを念頭においています。農民や町人は対象とはなっていませんでした。

 

まとめ

 棄捐令とは、江戸時代中期以降幕府が旗本と御家人を救うために作られた法令である。

 棄捐令は、寛政の改革と天保の改革の一環として、また文久年間にも出され、合計3回発布された。

 内容は、旗本と御家人の借金を帳消しにしたり、利子を引き下げたり、借金の返済を長期にするものであった。

 棄捐令は、貧民救済の法令である徳政令とは違って、旗本と御家人のみを対象とするものであった。




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