2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。

 

大河ドラマ「麒麟がくる」は、明智光秀の若かりし頃を描いた作品です。

 


明智光秀は「三日天下」とも言われ織田信長に謀反を起こした人物として有名であるにも関わらず、「なぜ謀反を起こしたのか?」「織田信長に仕えるまでの半生は何をしていたのか?」などわからないことが多々ある謎を秘めた人物です。

 

明智光秀ですら謎の人物ですから、今回のテーマである、妻の妻木煕子(つまきひろこ)に関してもわからないことがたくさんあります。

 

では、妻木煕子はどんな人物だったのでしょうか?

 

今回は、その人物像や逸話、明智光秀との関係性についても触れながら、妻木煕子について、わかりやすく解説していきます。

 

妻木煕子(明智煕子)の生涯

(西教寺にある墓所 出典:Wikipedia

 

では、煕子はどのような人物だったのでしょうか?

 

冒頭でも触れたとおり、妻木煕子については詳細な経歴が明らかになっていません。

 

それは、夫である明智光秀が「謀反人」となってしまったため、「明智家」そのものの史料がないからです。

 

(明智光秀 出典:Wikipedia

 

明智家の記載がしっかりしたものがないのですから、妻である煕子について詳細を記しているものはほとんどありません。

 

現在、わかっている範囲で妻木煕子の生涯についてご紹介します。

 

妻木煕子の生涯年表

 

  • 1530年ごろ 生まれる
  • 1545年ごろ 明智光秀と結婚
  • 1556年 長良川の戦いに明智光秀が参加し負けて浪人になる
  • 1556年 美濃を追われて越前朝倉氏の世話になる
  • 1568年 足利義昭を奉じて上洛
  • 1571年 近江坂本城に移る
  • 1576年 天王寺の戦いで過労のため倒れた光秀を看病する
  • 1576年 看病疲れのため妻木煕子死去(もしくは1582年 山崎の戦い後、光秀が百姓に殺されたことを聞き自害する)

 

妻木煕子は、明智光秀の妻ですから、その人生は明智光秀と共にあるといっても過言ではありません。そして、妻である煕子は光秀を陰で支えていたはずです。

 

それでは、妻木煕子の人生にはどんなことがあったのか詳しく紐解いていきましょう。

 

妻木煕子の人物像と壮絶な人生

 

妻木煕子は、1530年頃に生まれたといわれています。父は妻木範煕もしくは妻木広忠とされています。

 

煕子は大変「美人」だったと言われています。光秀との間に生まれた三女の細川ガラシャも大変美しいといわれていたので、煕子譲りだったのでしょう。

 

1545年頃に明智光秀の正室として迎え入れられました。

 

光秀は愛妻家で生涯側室を持たずに煕子一人を愛したといわれています。そして、光秀は煕子を煕子は光秀を愛していた逸話がいくつか残っています。

 

①愛妻エピソード「光秀の聡明さ」

まず、結婚が決まった折に、煕子は天然痘を患っていました。天然痘自体は、当時珍しくもない病気でしたが、そのさいに、美しかった顔には痘痕が残ってしまったそうです。

 

縁談を潰したくなかった妻木家は、瓜二つの容姿を持つ妹の芳子を光秀に嫁がせようとしますが、光秀が「痘痕は気にしない」「煕子がよい」と断ったといわれています。

 

外見にこだわらず「内面」を見る愛情の深さや優しさに、光秀の聡明さが伺えます。

 

②愛妻エピソード「長良川の戦いでのこと」

1556年に起きた斎藤道三と嫡男の斎藤義龍による長良川の戦いで明智光秀は斎藤道三側につきましたが、斎藤義龍に敗れてしまいます。

 

敗走中に、光秀は妊娠していた煕子を背負って越前へ逃亡したという逸話が残っています。とても妻と子ども想いですね。

 

③煕子と光秀の三女「細川ガラシャ」

煕子と光秀の間には、34の子どもがいます。有名なのは、三女の細川ガラシャです。

 

細川忠興に嫁ぎ、3男2女に恵まれ、こちらも夫婦仲がよかったとされています。

 

細川ガラシャの本名は明智玉と言います。しかし、夫に隠れてキリスト教に洗礼を受け「ガラシャ」という洗礼名を与えられました。

 

洗礼後は、夫婦仲が悪くなったともいわれていますが、キリスト教では離婚が認められていないと諭されていました。

 

そして、細川ガラシャは、1600年の関ヶ原の戦いで、細川屋敷を襲撃された際に自害しました。

 

 

とても意志が強い女性だったようですね。

 

④内助の功のエピソード「美しい黒髪を売り、お金を工面」

光秀が煕子を愛していたように、煕子も光秀を想い愛していたとわかる逸話が残されています。

 

1556年の長良川の戦いで光秀は破れ、本拠を失ってしまいます。そして、光秀は浪人になってしまい貧乏になります。

 

その後、朝倉氏に仕えることになるものの、その生活は変わらず質素を余儀なくされました。

 

そんな中、「連歌会」を開くことになった光秀。主催者にも関わらず、ご馳走や酒を用意する金策がありません。

 

そこで、煕子は光秀に恥をかかせないために、大切な自慢の美しい黒髪を切り、それを売ることでその連歌会の費用として工面したといわれています。

 

まさに大切な夫のために煕子は己の身を削ったというわけですね。

 

⑤内助の功のエピソード「光秀の看病後の死」

1576年天王寺の戦いに光秀が参加し、過労のため床に臥せると煕子はその光秀の看病を熱心に行いました。

 

そのかいもあってか、光秀は快気。

 

しかし、逆に看病疲れにより今度は煕子が病に臥せり亡くなってしまったといわれています。

 

自分が倒れてしまうほどに夫のことを想い看病した煕子はまさに「内助の功」といえる女性でしょう。それほど、光秀のことを愛していたとも言えます。

 

また、死亡説にはこの説の他に、1582年山崎の戦い後、敗走中に光秀が百姓に殺されたことを煕子が知り、坂本城にて自害したという説も残っています。

 

 

大河ドラマ「麒麟がくる」では妻木煕子を「木村文乃さん」が演じている!

大河ドラマ「麒麟がくる」で妻木煕子を演じるのは、女優の木村文乃さんです。

 

 

美人といわれていた妻木煕子を演じるにふさわしいキレイな女優ですよね。

 

1987年10月19日生まれの東京都出身で、特技には乗馬やスキー、剣道などが公式のプロフィールにも載っており、女優業では大人しい役柄が多いものの見かけによらず、スポーツ万能のようです。

 

2006年に女優デビューし、NHK大河ドラマには「功名が辻」にも出演しています。その後、2008年にはNHK連続テレビ小説「だんだん」に出演。

 

しかし、芸能活動を一時休止したことも。そして、復帰してからはさまざまなドラマや映画に出演されています。

 

最近では2019年「ザ・ファブル」やNHKドラマ「サギデカ」に出演。

 

お嬢様役やおだやかな性格の役柄が多い木村文乃さんですが、煕子は「自分の髪を切って売る」など豪胆さもあるので、木村文乃さんの新たな一面も見られるかもしれません。

 

また、大河ドラマ「功名が辻」にも妻木煕子が登場しており、その際には烏丸せつこさんが演じていました。

 

その時の木村文乃さんの役柄は長曾我部家の奥宮弥兵衛の娘役でしたが、烏丸せつこさんの演技を観ていたはずですから、木村文乃さんは、麒麟がくるでは妻木煕子をどう演じてくれるのでしょうか?とても楽しみですね。

 

是非、光秀を支える妻役として、麒麟がくるを持ち上げて行って欲しいですね。

 

まとめ

まとめ

 

 妻木煕子(明智煕子)は、1530年頃生まれ、1576年に看病疲れにより亡くなる。

 

 煕子の史料はあまり残されていない。

 

 煕子は美人だったといわれているが光秀に嫁ぐ前に天然痘にかかり、顔にその痘痕が残っていた。

 

 明智光秀に正室(妻)として迎え入れられると、光秀にとても愛され、側室は取らなかったとされている。

 

 愛妻エピソードが多々ある。逆に夫に尽くすエピソードも多々あり、夫婦仲は円満だったとされている。

 

 煕子と光秀の間には3男4女の子どもがいる。有名なのは細川ガラシャ。

 

 看病疲れによりその命を落とす説と光秀が殺されたことを知り坂本城で自害した説がある。