昭和初期の日本は戦争の時代でした。
その時代の戦争を総称して十五年戦争と言うこともあります。
今回はこの『15年戦争(十五年戦争)』について簡単にわかりやすく解説をしていきます。
目次
十五年戦争とは?
(沖縄に上陸し最前線を視察するアメリカ軍 出典:Wikipedia)
十五年戦争とは、1931年(昭和6年)の満州事変から1945年(昭和20年)の15年間にわたって日本が行った戦争です。
1931年(昭和6年)満州事変が勃発。満州事変そのものは数ヶ月で終わりますが、大陸への進出を図る日本と中国の間で緊張が高い状態が続いていました。
細かい衝突を繰り返したのち、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まります。
泥沼の日中戦争は、日本と中国の対立を日本とアメリカとの対立へと発展させていき、日本はアメリカを始めとするイギリスなどの各国と戦争をすることになりました。
最終的にこれらの戦争は1945年(昭和20年)日本の敗北で終止符が打たれます。
足掛け15年に渡って、主に中国問題を主因として行われた戦争を総称して十五年戦争と呼ぶのです。
十五年戦争の原因や流れ「日本の大陸進出」
①中国における日本の利権
日中の対立の要因になったできごとは明治時代にまで遡ります。
日清・日露戦争を通じて日本は朝鮮半島と中国大陸に権益を獲得。朝鮮半島は日韓併合で日本領となり、リャオトン半島は租借地として日本の勢力圏にありました。
また、満州では南満州鉄道とその付属地を領有していました。
そもそも、日本を守るためには朝鮮半島が強国の支配下におかれることを阻止しなければいけない。
そんな考えから結果的に朝鮮半島を領有することになったのですが、朝鮮が日本領になると朝鮮を守るためにそれに隣接する満州を得なければならないと、どんどん領土欲が発展していったのです。
利害が対立する清(中国)やロシアに勝ったことにより、日本の主張は通り、朝鮮や満州の一部を勢力下におくことができましたが、特にロシアには日本独力で勝ったわけではありませんでした。
アメリカやイギリスの経済的な支援があったから勝てたのです。
中国への進出が遅れたアメリカは日露戦争での日本への支援を契機に中国へ勢力を伸ばすことを企てます。
日本がロシアから譲ってもらった南満州鉄道の共同経営を持ち出します。
しかし、日本は拒否しました。これは中国を巡る日本とアメリカの衝突の出発点と見ることもできる出来事です。
②世界恐慌と満州
日露戦争から20数年後、時代は昭和時代になっていました。
このときアメリカ発の世界恐慌が始まったのです。
日本もその影響を受け、さらに天候不良による農作物の不作も重なり、農業も工業も打撃を受けたのです。
十分な植民地や領土を持っている国は恐慌に対しての有効な政策を打ち出すことができましたが、日本にはそれができませんでした。
そのため目をつけたのが中国の東北部、満州でした。
満州では実力者である張作霖を日本が支援していましたが、次第に張作霖との関係が悪化していきます。
現地で反日運動が高まっていくのを見て、張作霖が日本から欧米へと支援先を変えようとしたのです。
そこで日本は張作霖を暗殺します。(張作霖爆殺事件)
しかし、あとをついだ息子の張学良も反日政策を打ち出したため、日本は張学良を満州から排除し、支配しようとします。
こうして起きたのが1931年(昭和6年)に起きた満州事変でした。
③満州事変と満州国
満州事変そのものは現地軍である関東軍が企図し実行したもので、中央政府は現地軍に振り回された戦争でした。
張学良の主力軍が不在の間に行われ、大きな抵抗もなかったため、日本軍は半年もたたないうちに全満州を占領します。
直接統治をすれば国際社会の反発を受けますので、清朝最後の皇帝溥儀を執政として満州国を建国し、満州国を操ることでこの地域を支配していきました。
満州国には日本本土からも農地を求めて移住した人もたくさんいました。
しかし、満州事変から満州国建国までの一連の流れが国際社会から非難を浴びます。
国際連盟から送られたリットン調査団は日本の利権を一定認めつつも、満州事変と満州国は日本の侵略に当たると結論づけ、これに反発した日本は国際連盟から脱退してしまいました。
こうして日本は国際的に孤立してしまったのです。
日中の衝突と日米の対立
①日中双方の反感
大陸へ進出していく日本や日本人に対して、中国の人たちは反感を持っていました。
満州国近辺や租界のある上海など日本人居留地とそこを守備する日本軍に対して攻撃をしかけてきた中国軍もありました。
通州事件では日本軍を全滅させた中国軍が日本人居留民に対して虐殺を行うということがありました。
こうした事件を受け日本人の中では暴支膺懲という、暴虐な支那(=中国)を懲らしめないといけない、という考え方が生まれました。
双方の憎しみが募っていったのです。
②盧溝橋事件と日中戦争
1937年(昭和12年)そうした状況の中北京郊外の盧溝橋で日中両軍の衝突事件が発生します。
これが盧溝橋事件です。
発生からしばらくして事件そのものは現地軍同士の話し合いで一旦収まりかけますが、日本政府は増援軍を派遣、中華民国政府も日本との対決姿勢を表明し、日本と中国は戦争状態になりました。(日中戦争)
さきほど述べたように双方の国民がお互いに対して不信感や憎しみを持っていたことで、政府も引っ込みがつかなくなったことも戦争に発展した要因と考えられます。
③日米の対立と太平洋戦争
広大な中国大陸を戦場とする戦いに日本軍は苦戦します。
南京や武漢など主要都市を占領するものの、中国は屈しなかったのです。
インドシナ半島経由で中国側に援助物資が届いているためと考えた日本は、北部仏印と呼ばれたインドシナ半島北部へ軍隊を進めます。
これに対して反発したのがアメリカです。日本に対して屑鉄の禁輸を決定します。
その後、日米での交渉が進められますが、日本が南部仏印にまで軍隊を進めたことで、アメリカは日本への石油も禁輸することにしました。
当時石油の大半をアメリカから輸入していた日本は、アメリカの要求をのむか、アメリカと戦争をするかの選択を迫られたのです。
結局日本は後者を選び始まったのが1941年(昭和16年)の太平洋戦争でした。
太平洋戦争ももとは中国問題がきっかけになっていたのです。
④15年戦争の終結
最初の半年くらいはアメリカに対して優勢に進めることができた戦争も、ミッドウェー海戦とガダルカナル島での敗北から形勢が逆転してしまいます。
中国大陸、東南アジア、太平洋と広い地域での戦争は日本の国力を大きく超えていました。
その後東京をはじめ大都市が空襲され、日本各地が焦土になってようやく日本は戦争をやめることになります。
1945年(昭和20年)8月15日、15年に渡った戦争は日本の敗北で終わることになりました。
(ティモール島で降伏条項を聴く日本軍 出典:Wikipedia)
明治以来、日本が得た海外領土も全て失うことになりました。
15年戦争のその後
(被爆後の広島 出典:Wikipedia)
①戦後の復興と日本の繁栄
戦後数年間は混乱期がありましたが、冷戦という新たな世界構造の中、日本はアメリカ側の東アジアにおける有力な拠点になります。
そのため復興も早まりました。
1951年(昭和26年)には独立を回復し、1955年(昭和30年)には戦前レベルまで経済力が復活します。
空襲により、焼け野原が広がりましたが、工場に新しい機械を入れることができ、産業構造を見直すことで復興が早まったのです。
このあと、日本は高度経済成長時代を経て、1980年代には世界第2位の経済大国にまで上り詰めました。
②十五年戦争と昭和
十五年戦争は満州事変から始まりました。それが終わって数年間の空白期間ののち、日中戦争が始まっています。
厳密にいえば15年間ずっと戦争をしていたわけではありません。
従ってこの呼び方そのものが正しいのかという意見もあります。
しかし、昭和の初めに長く辛く暗い戦争の記憶があったからこそ、その後の日本には戦争のない平和な時代が続いていることも事実です。
昭和前半のそのような時期があったからこそ、その後の日本の発展がより明るいものとしてとらえられるのではないでしょうか。
まとめ
✔ 十五年戦争とは1931年(昭和6年)の満州事変から1945年(昭和20年)の15年間にわたって日本が行った戦争のこと。
✔ 15年間ずっと戦争をしていたわけではなく、数年間戦争がない期間もあった。
✔ 主に中国大陸へ進出した日本とそれに反発する中国の間で戦争が行われた。
✔ 日本は戦争に負けてしまい、海外の領土を全て失うことになった。
✔ 戦後日本は急速に復興し、世界第2位の経済大国まで上り詰めたが、それは15年間戦争をした負の記憶のもと平和国家を作ったからでもある。