明治時代の幕が開くと同時に、明治維新によりさまざまな改革が行われます。

 

立憲国家へ向けての動きが活発になると、法の整備もすすみ大日本帝国憲法が施行され、国政選挙が始まりました。

 

選挙権は、今では18歳以上なら当たり前のように持っているものと考えられていますが、選挙が始まった明治時代は納税額による制限があり、全人口のわずか1.1%と一握りの人だけが持つものでした。

 

今回は、『普通選挙法』について、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

普通選挙法とは?

 

普通選挙法とは、1925年(大正14年)に満25歳以上の全ての成年男子に選挙権を与えることを規定した法律のことです。

 

国政選挙が始まってからは、選挙権は一定以上の納税額のある者のみに与えられていましたが、普通選挙は社会運動の政治的要求として掲げられるようになります。

 

その後、普通選挙を求める普選運動の高まる中、護憲三派による第二次護憲運動が始まります。

 

普通選挙の実現を公約とした護憲三派が衆議院選挙に勝利すると、総裁の加藤高明のもとで普通選挙法案(正式には衆議院議員選挙法改正案)が成立しました。

 

普通選挙法が制定された背景

①立憲国家へ

欧米の議会政治の広まりが日本に伝わると、日本でも憲法制定と民選の議会開設への動きが生まれました。

 

また、岩倉使節団として欧米の視察をしてきた木戸孝允と大久保利通は、1873年に立憲政治体制の採用を求める意見書を作成しました。

 

一方で征韓論を巡って物別れとなり辞職していた板垣退助らは、1874年に愛国公党を設立するとともに民撰議院設立の建白書を提出しました。

 

 

これによって世の中に国会開設問題への関心が深まり、民間からの自由民権運動が始まることとなります。

 

 

1880年には国会期成同盟が結成されると、国会開設への動きはさらに強まります。

 

 

憲法制定と総選挙を急ぐ大隈重信と慎重派との亀裂が生まれ、1881年に大隈重信は辞職させられるとともに国会開設の勅諭が出され、1890年に国会が開設することが決まりました。

 

 

②選挙の始まり

1885年に内閣制度が創設されると、井上毅らが中心となって起草した憲法草案を枢密院(すうみついん)議長となった伊藤博文が審議および修正したのち、1889年に大日本帝国憲法が発布されました。

 

これは、主権者を天皇とする欽定憲法であり、君権主義と立憲主義を融合させたものでした。

 

 

憲法と同時に衆議院議員総選挙法が定められ、選挙権は15円以上の納税をしている男子のうち25歳以上のものとなりました。

 

1890年の第1回衆議院議員選挙では、有権者は45万人ほど、全人口4000万人の1.1%に過ぎませんでした。

 

③選挙法改正のあゆみ

1900年には山県内閣のもとで衆議院議員選挙法の改正が行われました。

 

 

(山県有朋 出典:Wikipedia)

 

 

直接国税の制限は10円に引き下げられた結果、有権者はおよそ98万人、全人口の2.2%と倍増します。

 

また、投票方法は無記名秘密投票制となり、被選挙権ついては納税制限が撤廃されました。

 

1919年になると、再度衆議院議員選挙法が改正され、直接国税による制限は3円にまで引き下げられました。

 

同時に大選挙区制小選挙区制に変更されます。この改正により、有権者は306万人、全人口の5.5%となりました。

 

段階的に改善されていましたが、さらに普通選挙を求める運動が活発化していきます。

 

④普選運動の高まり

さまざまな社会運動の一つとして、選挙権において納税額による制限を撤廃を求める普選運動は続いていました。

 

衆議院において普選案が多数の支持を得たこともありましたが、貴族院の反対により成立することはありませんでした。

 

1920年になると野党の憲政会立憲国民党は普通選挙の実現を掲げるものの、同年の総選挙で与党の立憲政友会に大敗し普選案は否決されることになります。

 

その後、第二次山本内閣が普通選挙実現のために選挙法の改正を目指しましたが、1923年の虎ノ門事件の責任を取り退陣を余儀なくされます。

 

⑤第二次護憲運動

(清浦奎吾 出典:Wikipedia)

 

 

1924年に清浦奎吾(きようらけいご)が貴族院主体の内閣を組織すると、立憲政友会・憲政会・革新倶楽部は清浦内閣を立憲政治に背く超然内閣とみなし護憲三派を結成します。

 

 

護憲三派は世論の支持を得ると、貴族院の改革や政党内閣の復活を掲げて第二次護憲運動をすすめて清浦内閣打倒を目指します。

 

立憲政友会の清浦派は脱党して政友本党を結成すると、立憲政友会に残った人数を上回ることになります。

 

これにより一時は清浦派は落ち着きますが、同年5月の総選挙では護憲三派が圧倒的な勝利を収めました。

 

同年6月に清浦内閣は総辞職すると、首相は第一党となった憲政会総裁の加藤高明となり、政党内閣が復活することになりました。

 

与党を護憲三派として組閣し、立憲政友会も普選運動の賛成に回ります。

 

1925年、加藤高明内閣において普通選挙法案が両院を通過し成立するにいたります。

 

 

(加藤高明内閣 出典:Wikipedia)

 

普通選挙法の条件

 

 

この普通選挙法の選挙権を有するための条件は、満25歳以上であることと男性であることのみになりました。

 

このとき、初めて納税額、財産、身分などの制限が完全に撤廃されます。

 

これにより、有権者は1240万人、全人口の20.8%と大幅に増加します。

 

被選挙権は満30歳以上の男性となりますが、変わらず女性に選挙権はありませんでした。

 

日本では性別を除く全ての条件が撤廃されることになりましたが、欧米ではフランス、アメリカ、ドイツでは19世紀中に、イギリスでは1918年にすでに男性の普通選挙が実現していました。

 

普通選挙法改正

(幣原喜重郎 出典:Wikipedia)

 

 

第二次世界大戦後、1945109日に幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)が首相となると五大改革指令を実行することになります。

 

この指令は、10月11日にマッカーサーが幣原に口頭で述べた示唆であり、次の通りでした。

  • 憲法の自由主義化のための大日本帝国憲法改正と婦人参政権の付与
  • 労働組合の結成奨励
  • 教育制度の自由主義的改革
  • 圧政的諸制度(治安維持法特高警察など)の廃止
  • 経済機構の民主化

幣原はこの指令に基づいて次々に対処し、同年12月には衆議院議員選挙法を改正し女性の参政権を認めることになりました。

 

改正後は、満20歳以上の全ての男女に選挙権が認められ、有権者は3688万人、全人口の50.4%となります。

 

また、被選挙権は満25歳以上の男女と年齢も引き下げられました。

 

男女とにも普通選挙が実現したのは、1893年のニュージーランドを皮切りに、アメリカ、ドイツ、イギリス、ソ連では戦前に、日本とフランス、スイスでは1945年、インドや中国ではそれ以降のことでした。

 

のちの1950年に、衆議院議員選挙法と参議院議員選挙法、地方自治法が統合され、新法として公職選挙法が制定されました。

 

なお、公職とは「衆議院議員」「参議院議員」「地方議会の議員」「知事および市町村長」を指します。

 

2015年には、さらに年齢が引き下げられ、満18歳以上の男女に選挙権が認められることになります。

 

この改正後、初の衆議院総選挙は2017年に行われ、有権者数はおよそ1609万人、全人口の84%でした。

 

まとめ

 普通選挙法とは、1925年に納税額の制限なしに満25歳以上の全ての男性に選挙権を認めた法案のこと。

 1890年に初めて総選挙が行われたときには、納税額の制限があり全人口の1.1%と有権者はわずかな富裕層に限られていた。

 立憲国家へ向かう中で、国会を開設し選挙を行うことは必須のことであり、普選運動の高まりなどから普通選挙の実現に向かっていった。

 男女ともに完全な普通選挙となったのは戦後になってからであった。




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