1910年から1945年まで韓国を支配してきた日本。
しかし、いきなり日本は韓国を併合したのではなく、何度かの順序を踏まえてついに韓国を併合したのでした。
今回はそんな韓国が日本のものとなる順序となった『日韓協約(にっかんきょうやく)』について簡単にわかりやすく解説していきます。
目次
日韓協約とは?
(第二次日韓協約 出典:Wikipedia)
日韓協約とは、1904年(明治37年)の第一次日韓協約、1905年(明治38年)の第二次日韓協約、1907年(明治40年)の第三次日韓協約の3回にわたって行われた日本と大韓帝国との協定のことです。
この協定によって韓国は日本の保護国に置かれ、その後の1910年に日本に併合されてしまうことになりました。
そして、韓国は日本が第二次世界大戦で敗戦する1945年までの35年の間支配されました。
日韓協約の目的【なぜ結ぼうとしたのか?】
(1904年反ロシアの風刺地図 出典:Wikipedia)
日韓協約が結ばれる直前。
日本はロシアとの関係がどんどん悪化しており、そんなロシアは勢力を満州へと伸ばそうとしていました。
この満州へと勢力を伸ばしているロシアに対抗するべくと日本は朝鮮へと勢力を伸ばしていくこととなります。
こうして、1904年からどんどん日本は朝鮮に圧倒的に不利な不平等条約を叩きつけていき、そして朝鮮を保護国化していったのです。
第一次日韓協約についてわかりやすく
①日露戦争と朝鮮への対応
第一次日韓協約が結ばれた1904年、この年日本では日露戦争の真っ最中であり、日本海海戦や奉天会戦で次々と勝利を収めていました。
そんな日本でしたが、一つ朝鮮に対する問題を抱えていました。
ちょうどこの頃、朝鮮はロシアになびきがちな状態となっており、もし日本に不利な状況が訪れた場合、土壇場の所でロシアの味方につくかもしれません。
そうなってしまうと日本にとっては大ピンチ。そこで日本政府は朝鮮がロシアになびかないように内政に日本人の顧問を雇わなければならないと仕立て上げたのでした。
②第一次日韓協約の内容と顧問政治
第一次日韓協約の内容は以下の通りです。
第一次日韓協約
- 韓国政府は日本政府が推薦する顧問を招待して財務に関係する事は全て指示を仰ぐこと
- 韓国政府は日本政府が推薦する顧問を招待して外交に関係することは全て指示を仰ぐこと
- 韓国政府は外国との条約を結ぶには日本政府と協議しなければならない
この条文を見る限り韓国は、「財務や外交などの重要事項においては必ず日本政府に相談しなければなりません」ということがよくわかります。
その通り、この条約によって日本政府は韓国へ大蔵省の目賀田種太郎を財務顧問として派遣しました。
韓国はこの条約によって保護国化の第一歩を歩むこととなったのでした。
第二次日韓協約についてわかりやすく
(1899年『大韓全図』 出典:Wikipedia)
①ポーツマス条約による韓国支配
第一次日韓協約の締結から1年後、日本とロシアが熾烈な争いを繰り広げた日露戦争は日本の勝利にて終結しました。
日本は講和条約であるポーツマス条約によって、ついに念願の朝鮮の支配権を獲得したのでした。
さらに日本は前の三国干渉の教訓を受けてロシア以外の列強国とも条約を結び、アメリカとは桂・タフト協定、イギリスとは日英同盟の改訂版によって韓国の支配を認めさせたのです。
②第二次日韓協約の内容
第二次日韓協約の内容は以下の通りです。
第二次日韓協約
- 韓国の外交権はこれから日本の外務省が行う
- 韓国が外国と条約を締結するには日本政府の許可を受けなければならない
- 日本政府は韓国を管理するために韓国に統監を置くことを韓国は認める
これを見ればわかるように、第一次日韓協約と比べてこの条約では韓国の外交に間接的に介入することをやめ、そもそも韓国の外交権を剥奪したことがわかります。
外交権がない国なんて主権国家とは見られません。
その通り、ここから先は「韓国は日本の保護国」となり、韓国の首都である漢城には韓国統監府を設置。韓国の外交権を監督することになりました。
③韓国皇帝の抵抗
こうして、韓国は外交権を失い日本の支援を受けなければ何もできない子供のような保護国となってしまいましたが、韓国の皇帝である高宗はこれを黙ってみることはもちろんありませんでした。
1907年、韓国政府は当時オランダのハーグで行われていた第二回万国平和会議に特使を派遣。日本が韓国を侵略していることを先進国に訴えかけたのです。(ハーグ密使事件)
しかし、この訴えに対して列強国は無視します。
「なんで滅びかけの国を支援して日本との関係を悪化させなければならないんだ?」という意見によって、この訴えは握りつぶされてしまい、日本の韓国支配が世界に認められるという韓国にとっては思っていたのと真逆の結果が待っていたのでした。
第三次日韓協約についてわかりやすく
(伊藤博文 出典:Wikipedia)
①伊藤博文の脅迫
こうして日本の韓国支配が世界に認められたのですが、このハーグ密使事件に対して日本政府は怒り心頭でした。
それもそのはず、日本は韓国の外交権を握っています。
そのため、韓国が勝手に外交行為である密使を送るということは認められません。
そして、韓国統監府初代統監である伊藤博文は高宗に退位を命令。無理矢理皇帝の座から引きずり落として新たに韓国に対して過酷な協約を結びます。
これこそが第三次日韓協約になります。
②第三次日韓協約の内容
第三次日韓協約の内容は以下の通りです。
第三次日韓協約
- 大審院(今の最高裁判所)を京城に置いて判事を日本人とする
- 韓国の各地に監獄を置いてその刑務官を日本人とする
- 韓国軍の解散して、全ての政治に関することは統監の指示を仰ぐこと
これを見れば分かる通り、この第三次日韓協約によって韓国の軍は解散され、日本の軍に頼らざるおえない状況となってしまいます。
さらに、秘密裏には韓国の司法権と警察権も日本に奪われてしまい、これによって韓国はほとんどの内政権を奪われてしまいます。
そして、韓国政府の半分の官吏が日本人という独立国としてあり得ない事態となってしまい、韓国はついに植民地と化してしまったのでした。
さらに、日本政府は内政権だけではなく韓国の経済にも介入。
1908年には韓国に韓国の経済を統括する東洋拓殖株式会社を設立し、所在不明だった韓国の土地を日本が接収します。
経済においても日本の支配力を強めていきました。
第三次日韓協約締結のその後
1907年の第三次日韓協約によって韓国軍は解散され、軍人は全員解雇されてしまいました。
もちろん、韓国人の軍人からしたらこんなもの受け入れられるはずもありません。
また、日本による韓国の支配に抵抗する人も多数おり、軍人と抵抗する人が支配に抵抗する義兵運動が活発化していきました。
そして1909年にはこの義兵運動はピークに達し韓国人の運動家である安重根が初代統監であった伊藤博文をハルビン駅にて暗殺。
(安重根 出典:Wikipedia)
しかし、日本政府からすればこの義兵運動は天佑そのもの。
さらに伊藤博文の暗殺によって韓国の併合の口実を得た日本は、1910年に日韓併合条約を無理矢理締結させます。
韓国はこうして日本の一部となり、日本が第二次世界大戦で敗戦する1945年までの35年の間支配されることとなりました。
まとめ
✔ 日韓協約とは、日本と韓国の間で結ばれた三つの条約のこと。
✔ 日露戦争で韓国がロシアになびくことを恐れた日本は第一次日韓協約にて韓国の外交権を支配し始めた。
✔ ポーツマス条約によって韓国の支配が認められた日本は第二次日韓協約で韓国の外交権を奪い漢城に統監府を置いた。
✔ ハーグ密使事件で勝手な行動をした韓国に対して日本は第三次日韓協約によって内政権を奪い取って日本の植民地とした。
✔ 第三次日韓協約において韓国軍を解散したことによって韓国全土で義兵運動が巻き起こって伊藤博文が安重根によって暗殺される事件も起きた。