【ハーグ密使事件とは】簡単にわかりやすく解説!!なぜ起こった?流れとその後

 

1910年に朝鮮は日本によって併合されてしまいます。

 

しかし、併合までの間朝鮮は日本による併合をなんとか無くそうと必死にもがいてたことがありました。

 

今回は朝鮮が最後の賭けをした『ハーグ密使事件』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

ハーグ密使事件とは

(密使を担った3人 右から李瑋鍾、李相卨、李儁 出典:Wikipedia

 

 

ハーグ密使事件とは、1907年(明治40年)オランダでのハーグ万国平和会議において朝鮮が日本の支配の実情を外国に訴えた事件のことをいいます。

 

この事件によって日本が朝鮮を支配することが確定しました。

 

ここからは、ハーグ密使事件までの背景・詳しい流れを解説していきます。

 

ハーグ密使事件前の朝鮮

①第一次日韓協約

日本は日清・日露戦争の後、朝鮮の優越権という朝鮮に対して日本が得することができる権利を手に入れることができました。

 

日本はこの権利をフル活用して第一次日韓協約を結びます。

 

この協約は日本政府が勧める日本人を外交顧問として朝鮮が役人にさせることや、条約締結などの大切な外交問題は必ず日本政府と協議することを認めさせます。

 

これによって日本は朝鮮の政治を動かすようになりました。

 

②第二次日韓協約

(第二次日韓協約 出典:Wikipedia

 

 

日本は朝鮮の政治を動かすことだけでは我慢できず、第二次日韓協約で朝鮮の外交に関することは全て日本がすることや、日本のOKなしに外国と条約や協定を結ぶことを禁止すること・・・

 

さらに朝鮮に朝鮮統監府を置いて朝鮮の外交を監視することを認める協約を結んで朝鮮の外交権を全て奪い取ります。

 

もちろん朝鮮の想いなんて無視です。こんな状態をこの当時の朝鮮の君主である高宗が我慢できるはずがありません。

 

そこで高宗はこの当時オランダのハーグで開催していた第2回万国平和会議の時に、欧米の列強諸国に朝鮮の実情を訴えて列強が日本に対して圧力をかけてもらおうと画策します。

 

日本は日清戦争の後の三国干渉で清の遼東半島を返している過去があるので、高宗は『これはいけるぞ!』と思いハーグに外交官を派遣しました。

 

 

ハーグ密使事件

(1900年ごろのハーグ 正面の建物は"騎士の館" 出典:Wikipedia

 

 

朝鮮の外交官はハーグに到着しました。

 

早速、外交官は万国平和会議に出席していた欧米の列強諸国に朝鮮の今の実情を訴えようとします。

 

しかし、朝鮮は第二次日韓協約によって外交権を奪われたため勝手に朝鮮だけで外交をすることは不可能でした。

 

ですが、外交官はめげません。欧米諸国に対して一か八かで訴えます。しかし、欧米諸国はこの訴えを受け取ることはしませんでした。

 

欧米諸国はともうすぐ日本に呑み込まれる朝鮮を助けることによって、急激な近代化で欧米列強と肩を並べる国になった日本の関係が悪くなることを恐れて朝鮮の訴えをはねのけました。

 

さらに列強諸国は朝鮮に『あなたもう日本の支配下に置かれたら?』というような言葉も朝鮮の外交官を に言い放ち朝鮮を見捨てました。

 

朝鮮の外交官はこのことにショックを受け、外交官の一人が訴えを退けられた直後にハーグで死んでしまいます。

 

事件直後の日本の反応

 

 

さらに列強諸国はこの朝鮮の訴えを日本に対して事細かに説明してしまいます。

 

もちろん日本は勝手に外交を行った朝鮮に対して大激怒。即座に朝鮮に対して抗議します。

 

さらに日本は朝鮮の勝手な行動によってメンツが丸潰れになったことを気にして、これ以上朝鮮が勝手なことをしないように朝鮮に対して容赦ない報復をします。それが第三次日韓協約でした。

 

①朝鮮の皇帝の退位

(大日本帝国の大礼服を身にまとった高宗 出典:Wikipedia

 

 

日本はまずこの外交官の派遣を命令した高宗の退位を命令します。

 

朝鮮は拒否したかったと思いますが、日本の命令を無視したらどうなるかはわかりません。

 

仕方なく高宗は皇帝をやめました。

 

そして新たに朝鮮の皇帝に純宗が就任。この純宗の時代に朝鮮は併合されます。

 

②第三次日韓協約

第三次日韓協約はハーグ密使事件の朝鮮の勝手な行動をもう二度と起こさないよう、朝鮮のいろんな権利を剥奪するようにした協約です。

 

第1条では朝鮮が政治をするには、当時朝鮮に置かれていた朝鮮統監府の指導を受けなければならなくなりました。

 

つまり朝鮮は自分の国の政治を自らすることができなくなったのです。

 

第2条では新しく法律を作ったり朝鮮での重要な判断を決定する時には、決定する前にあらかじめ朝鮮統監府の許可を受けなければならなくなりました。

 

これによって朝鮮は司法権を日本に奪われてしまいました。

 

第4条では朝鮮の政府の政治家を任命する時朝鮮統監府の同意が必ず必要になりました。

 

第5条では朝鮮は朝鮮統監府が、おススメする日本人はどんなに朝鮮の都合が悪かった場合でも絶対に役人として使わなければいけなくなりました。

 

さらに第6条では朝鮮は朝鮮統監府のOKをもらわずに、勝手に日本以外の国から人材を雇うことが出来なくなりました。

 

このように朝鮮は第三次日韓協約によって、国として必要な権利を全て日本に奪われてしまいます。

 

そして日本はどんどん朝鮮の支配を強めていきます。

 

事件直後の朝鮮の反応

(伊藤博文)

義兵運動『伊藤博文の暗殺』

朝鮮はついに欧米の列強諸国から見放されてしまい、さらに第三次日韓協約によって国の権利を奪われてしまいました。

 

しかし、朝鮮の人々はもちろんこのことに納得はしません。

 

朝鮮の人々は『国が何もできないのであれば俺たちがやればいいじゃないか!』として日本に対して義兵運動という暴動を朝鮮全土で起こします。

 

義兵運動は1909年にピークを迎えますが、当時朝鮮統監府の長官だった伊藤博文は朝鮮に対する圧力をさらに強くして義兵運動を潰しました。

 

義兵運動を起こした人々は伊藤博文を恨み、そしてついにハルビン駅という駅で義兵運動を起こしていた安重根によって伊藤博文は暗殺されてしまいました。

 

しかし日本による朝鮮の支配は止めることが出来ず、そしてついに1910年に朝鮮は日本によって併合されてしまいました。

 

 

まとめ

・朝鮮は第一次日韓協約や第二次日韓協約によって外交権を取られた。

・朝鮮の皇帝の高宗は日本の支配を無くそうと当時万国平和会議が行われていたハーグに外交官を派遣して列強に訴えた。

・しかし、この訴えを列強諸国は無視して逆に日本に知らせた。

・この知らせを受けて日本は第三次日韓協約を結んでより一層朝鮮の支配を強めた。

・朝鮮は第三次日韓協約を結んだ後も義兵活動で日本の支配に反抗したが1910年に朝鮮は日本によって併合された。