貴族たちのきらびやかな文化が発展していった平安時代。

 

この頃に今でも国語の教科書に載っているような古典作品やひらがな、カタカナが完成しました。

 

今回はそんな文学作品が生まれた時の文化である『国風文化』について特徴などわかりやすく解説していきます。

 

国風文化とは?

 

 

国風文化とは、平安時代中期を中心に栄えた日本独自の発展を遂げた文化のことです。

 

この裏には日本が遣唐使を廃止したことに関係していました。

 

国風文化が発展するまでの流れ

(8世紀前半の唐 出典:Wikipedia

①中国の影響を受けていた奈良時代

平安時代以前の日本は今とは違って中国(この頃は唐)の影響を強く受けていました。その時の文化を天平文化と言います。

 

平城京と平安京の道路は囲碁の碁盤みたいになっており、その先に宮殿がある都市となっていました。

 

これはこの当時唐の首都であった長安を真似ているとされています。

 

このように奈良時代には中国の文化を取り入れて日本を発展させようと目指していだのです。

 

②遣唐使の廃止

そんな日本の流れが変わったのが894年の遣唐使の廃止です。

 

遣唐使とは日本が度々中国に対して人をを派遣して交易を行う施設のことですが、874年にその中国で黄巣の乱という一大反乱が起きてしまい、一気に唐が衰退してしまいます。

 

これを受けて遣唐使を派遣しようと話し合いをしていた時に当時の日本の実質的なリーダーであった菅原道真は宇多天皇に対して「今唐は反乱が起きて一気に衰退しており、さらに遣唐使に行くときに遭難しやすくやっても損するだけで意味がないからやめたほうがいい」と提案します。

 

結局この意見が採用され日本は遣唐使を廃止。約200年続いた遣唐使が終わりました。

 

この頃から日本では中国の文化の影響をただ受けるのではなく、日本の性格や風習に沿って文化を発展させていこうという動きが現れ、この遣唐使の廃止をきっかけにその動きは加速していくことになるのです。

 

国風文化で栄えた文学

 

 

国風文化で一番代表的な例となっているのはこの頃発展した日本文学です。まずはこの文学の発展を見てみましょう。

 

①かな文字の始まり

これまで日本では文字といったら中国の漢字を日本語に当てるために音の雰囲気だけを使う万葉仮名というのが使われてきました。

 

でも漢字となると書くのにめんどくさいと思う人が出てきました。そこでこの時代に仮名文字という漢字を一部分を使ったカタカナと漢字を草書体にしたところからさらにぐちゃぐちゃにしたひらがなが誕生します。

 

しかし、なんで仮名文字はカタカナとひらがなに分かれているのでしょうか?

 

一つにまとめても良いものだと思いますが、実はカタカナというのは元々中国から来た仏教の経典の文字を翻訳するために作られたもので、主に男性の人が使っていました。

 

その一方でひらがなは主に女性が使っていました。

 

今でこそひらがなが主流でしたが、実は男が上に立っていたこともあって終戦直後まではひらがなよりもカタカナの方が主流だったのです。

 

②物語・日記

国風文化では国語の教科書でも載っているような物語や日記が数々生まれました。

 

例えば、日本における恋愛小説の最高傑作で紫式部が書いた「源氏物語」や日本三大随筆の一つであるあの清少納言が書いた「枕草子」がこの時期に完成しています。

 

この頃の文学の特徴として、この源氏物語と枕草子の作者が共に女性であったように女流作家が活躍していました。

 

実はこの頃の摂関政治の最盛期であり、天皇や天皇の妃などの養育係として教養がある女性などがスカウトされていました。紫式部と清少納言が主な例です。

 

そのため、そんな女性などは暇な時に日記や物語を書き、さまざまな名作が生まれていったのです。

 

この時完成した主な名作は在原業平の生涯を書いたとされる「伊勢物語」、藤原道綱母が結婚生活の不満を書いた「蜻蛉日記」、菅原孝標女が人生を回想した「更級日記」、和泉式部が恋愛について書いた「和泉式部日記」などがあります。

 

またこれは男である紀貫之が書いたものですが、わざわざ女性が使うひらがなを使って書いた「土佐日記」などもありました。

 

③和歌

 

平安時代、自分の思いや考えさらに相手に結婚を申し込むことになどは和歌で表現していました。

 

そんな中、醍醐天皇が奈良時代に成立した万葉集では選ばれなかったったり、編纂直後に詠まれた和歌の名作などを再びまとめて新しく和歌集を書くように命令します。

 

このように天皇の命令で作られた和歌集を勅撰和歌集と言います。

 

そして905年に日本初の勅撰和歌集である古今和歌集が完成しました。

 

これから先日本ではこの勅撰和歌集がたくさん作られていくことになります。

 

ちなみに、この和歌集には上にも書いた土佐日記の作者である紀貫之が制作に携わっています。

 

また、勅撰和歌集ではないものの、藤原公任という人が和漢朗詠集という漢詩や和歌などを集めてまとめた今で言うところの歌詞本みたいなもののこの時に完成しました。

 

④服装

 

 

この頃の平安貴族は束帯という服装を着て頭には垂纓冠をかぶっていました。

 

一方、この頃誕生した武士は束帯ではあるものの、少し黒っぽくまた冠も巻纓冠という纓という所を丸めている冠をかぶっていました。

 

一方女性の方は十二単という、という服をを何枚も重ねてその袿の色合わせでオシャレしていたそうです。大変ですね。

 

浄土教の流行と浄土美術

①末法思想と浄土信仰

国風文化が栄えていた平安時代中期。この頃は藤原北家が日本の政治を独占的に支配していた時代でもありました。

 

しかし、この一族はある心配がありました。

 

実は日本が当時信仰していた仏教は開祖である釈迦が亡くなってから2000年経ったら仏教の教えがなくなってしまうという末法思想というのがありました。

 

ちなみに釈迦がなくなったのは前949年。つまり1052年に仏教の教えが消えてしまうということになってしまいます。

 

「これはえらいこっちゃ!」と思った藤原北家含む貴族たちは当時日本に伝来してきたばかりである浄土教を信仰し始めました。

 

浄土教とは簡単に言えば、阿弥陀如来を信仰して極楽浄土に行けるようにする教えです。

 

『南無阿弥陀仏』はこの阿弥陀如来を信仰している掛け声みたいなものです。

 

貴族たちの間でははとりあえず阿弥陀如来を信仰していたら極楽浄土に行けるというのにつられたのでしょうね。

 

ちなみに、一般の人にも空也というお坊さんが浄土教の教えを広めたりもしています。

 

②大和絵と建築様式

この浄土教の教えを表現しようと日本で発達したのが日本風の絵である大和絵が発展していきました。

 

また、阿弥陀如来の仏像を大量に作るためにこれから先仏像のスタンダードな造り方となる寄木造が用いられ始めました。

 

また、表情が柔らかく、流れるような曲線が特徴の定朝様式という様式がこの頃完成しています。

 

建築の方では十円玉にも描かれている平等院鳳凰堂を代表するように寝殿造という様式が流行りました。

 

この寝殿造は室町時代後期に書院造が流行りだすまで日本の主な建築様式となりました。

 

(平等院鳳凰堂 出典:Wikipedia

 

まとめ

✔ 国風文化は平安時代中期から起こった日本風の文化のこと。

✔ 国風文化が発展した背景に遣唐使が廃止されたことがあった。

✔ この時にカタカナやひらがななどのかな文字が作られ、枕草子や源氏物語などの女流作家の作品が多く見られるようになっていった。

✔ 平安時代から天皇の命令を受けて作られた和歌集である勅撰和歌集が作られていった。

✔ この頃日本では末法思想による浄土信仰が流行し、日本風の絵である大和絵や平等院鳳凰堂を代表される寝殿造なども建造された。




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