【農地改革とは】簡単にわかりやすく解説!!目的や内容・結果・地主没落など

 

第二次世界大戦後、日本はGHQにより様々な民主化政策が行われていきました。

 

農地改革では、江戸時代より形成されてきた寄生地主制の解体させることに成功しました。

 

この農地改革は、GHQの民主化政策で一番の成果をあげたものだったと言われていますが、どのようなものだったのでしょうか。

 

今回は、そんな『農地改革』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

農地改革とは?

 

農地改革とは、第二次世界大戦後にGHQにより行われた民主化政策の一つです。

 

地主は小作地を国に買い上げられ、小作人に廉価で売り渡されることとなりました。

 

この政策により寄生地主制を解体させることに成功。現代のような、「農地の所有者がその農地で農業を行う」という形を創ることとなりました。

 

農地改革の目的

(GHQのマッカーサー最高司令官 出典:Wikipedia

①寄生地主制度

GHQは、日本が軍国主義となり、第二次世界大戦などの侵略戦争を行った原因は、封建的な寄生地主制による農村の窮乏にあると考えていました。

 

 

寄生地主制の中では、地主が小作人に田畑を貸し、その賃貸料として小作料を小作人は地主に支払っていました。

 

この小作料は高額なことが多く、裕福な地主と貧しい小作人という貧富の差が農村内で生まれていくこととなりました。

 

このような裕福な地主の中には、質屋などの金融業を営み、小作人に金銭の貸し付けを行っている人も少なくなかったため、さらに貧富の差は拡大していきました。

 

戦前1938年の日本では小作農の割合が多く、農地の約46%が小作地であり、農民の約26%が小作農となっていました。

 

これにより、地主と小作人の関係が農業の中で支配的なものとなってしまっていたのでした。

 

地主には、農村に地主自身もいる「在村地主」と、地主が別の農村にいる「不在地主」とに区別されていました。

 

②農民争議

小作人が地主に対し,小作料の引き下げや条件改善を要求する運動が1920年の大正デモクラシーの影響を受けて、頻発していました。

 

 

1922年には、杉山元治郞などにより全国規模の組織である日本農民組合同盟が作られました。

 

これを受け、政府は1924年に「小作調停法」を制定し、各府県に「小作官」を置き,小作人と地主との関係調整を図っていきました。

 

しかし、小作人に耕作権を与える「小作法」の成立は、有力な地主に支持されていた当時の帝国会議では可決されず、根本的な解決まで至っていませんでした。

 

農地改革の内容

①第一次農地改革

第一次農地改革案が194512月に幣原喜重郎内閣で提出されました。

 

自小作地(自作地と小作地の合計)の制限はなく、譲渡方法は小作と地主の協議によるものとされていました。

 

日本政府は改正農地調整法を公布し、19462月から実施する予定でしたが、「寄生地主の解体が不徹底である」とのGHQの非難を受けたことにより、結局実施することはできませんでした。

 

②第二次農地改革

第二次農地改革はGHQの勧告を受け、194610月第一次吉田茂内閣で提出されました。

 

これにより、国が強制的に全農地の約45%(小作地の80%)の土地を所有者から買い上げ、優先的に小作人に廉価で売り渡されていきました。

 

不在地主はすべての小作地の保有が認められず、在村地主はその農地のある市町村に在住する者と定義され、内地1町歩しか小作地の保有がみとめられませんでした。

 

また、小作料は金銭によって納めることと定められました。さらに、今後の農地の売買などは農地委員会の承認が必要とされました。

 

この第二次農地改革は、自作農創設特別措置法の公布された19473月から実施され、19507月に完了をしました。

 

③不徹底な農地改革

水田や畑は、寄生地主制の解体が行われましたが、林野は国による買い上げ等は行われませんでした。

 

また,画一的に国による田畑の買い上げが行われていたため、出稼ぎのために一時的に田畑を預けられていた農地も買い上げの対象とされてしまいました。

 

なお、沖縄県と鹿児島県奄美群島は当時、アメリカ領とされていたため、農地改革は行われませんでした。

 

農地改革の結果

①寄生地主制の解体と地主没落

この結果、全農地の45%もあった小作地が10%を割るようになりました。

 

さらに高額だった小作料も公定の低額なものとなり、地主と小作人の封建的身分関係が消滅することとなりました。

 

自作農も1938年の約30%から改革後は約60%へと増大することとなりました。

 

しかし、地主の中にはタダ同然のお金で国に買い上げられてしまい、小作料という収入がなくなったため、没落していく人もいました。

 

②農地法の制定

農地法は農地は所有者が耕作をする自作農の形が基本であるとの考えのもと、所有者の地位安定と農業生産力を増大させることを目的に農地改革の成果を維持するために1952年に制定されました。

 

自作農が再び小作人となることを防ぐために、農地の売買・貸借について農業委員会の許可が必要であるとされました。

 

しかし、小作地を多くの小作人に売り渡し売買を制限されたため、大規模農家が育たず、零細農家が増えることとなりました。

 

③地主補償問題

小作地が廉価で国に土地を買い上げられたため、元地主の反発が大きく、農地委員会へ意義を申し立てる者や行政訴訟を訴える者がいました。

 

中には、日本国憲法第29条第3項の「財産権の保証」に違反するとして、違憲訴訟を起こした者もいました。

 

しかし、訴訟の結果、19531223日に最高裁判所より「農地改革は合憲である」との判断が下されました。

 

判決を受けると、元地主たちは政府と農林水産省に対して補償を求める動きを起こすようになりました。

 

これを受け、政府は1965年に「農地被買収者に対する給付金の交付に関する法律」を制定し、元地主に対して、国債を発行して、追加補償をすることを決定しました。

 

補償額は水田10アールに対し2万円が上限とされ、買収面積に応じて減らしていく計算方式で算定されて補償額(最高100万円)を国債で支給しました。

 

結果として、政府は1237億円を国債によって支給することとなりましたが、元地主による補償運動はなくなりました。

 

④共産主義への防波堤

当時、賃金労働者や小作人の多くは、日本共産党や共産主義を支持していました。

 

しかし、農地改革により、小作人が自作農として私有財産を持ったことにより、多くの小作人が保守系の政党へ取り込まれることとなりました。

 

このことにより、日本政府とGHQは勢力を拡大させつつあり、警戒をしていた共産主義の力を削ぐことになりました。

 

まとめ

 小作人と地主は封建的な関係であり、小作人は地主に高額な小作料を支払っていた。

 寄生地主制が日本を軍国主義国家にした原因であるとGHQは考えていた。

 GHQに推し進めていた経済の民主化政策の一つだった。

 第一次農地改革案は寄生地主制を解体するのは不十分なものだった。

 第二次農地改革により、小作地の多くが、強制的に国が買い上げれ、廉価で小作人に売り渡されることとなった。

 農地改革により、寄生地主制は解体された。

 国に強制的に買い上げられた元地主は怒り、訴訟等の補償問題が発生しました。