【上げ米の制とは】簡単にわかりやすく解説!!目的(理由)や内容・影響など

 

江戸時代の中期から後期にかけて幕府の財源を確保するため、そして飢饉を乗り越えるために様々な改革が行われました。

 

今回は、そのような江戸時代の改革の1つ『上げ米の制』についてわかりやすく解説していきます。

 

上げ米の制とは

 

 

上げ米の制とは、1772年(享保7年)江戸幕府の八代将軍徳川吉宗が実施した『享保の改革』の一部の政策です。

 

大名たちに石高1万石につき100石の米を納めさせる代わりに、参勤交代で江戸にいる期間を半年にするようにしました。(通常は1年)

 

上げ米の制の実施までの流れ(背景・目的)

 

 

徳川吉宗が享保の改革を実施したことは有名ですが、そもそもなぜ享保の改革が必要だったのでしょうか。

 

①徳川綱吉の政治で財政圧迫

(徳川綱吉 出典:Wikipedia

 

 

答えは、五代将軍の徳川綱吉の散財から幕府財政が圧迫されていたことが原因です。

 

徳川綱吉は、有名な生類憐みの令をおこなった人物です。

 

 

跡取りの徳松が幼くして死んでしまったため子供を授かるようにしてもなかなか上手くいかず、綱吉が戌年のため犬を大切にすれば子供を授かるという坊主の言うことを真に受けて実施したと言われています。

 

綱吉はこの話を受けて生類憐みの令を発布します。そして、犬屋敷と言われる御囲という施設を作りました。簡単に言えば犬小屋です。

 

これの何が問題かと言うと、最も大きいものでは東京ドーム20個分ほどの大きさのものを作ってしまったことです。

 

そして、ここに居る犬への餌台なども幕府が用意していたため幕府の財政はかなり圧迫されることになりました。

 

この事態に対応するために、小判の金含有量を減らします。

 

当時の小判には、本当に価値のある金が入っていました。その金の量を減らして大量に粗悪な小判を作ったのです。これでは、物価が上昇してしまいます。

 

そして、財政は混乱のまま次の新井白石が政治をおこないます。

 

②新井白石の政治

(新井白石 出典:Wikipedia

 

 

徳川綱吉の政治を受けて、次の新井白石は綱吉のおこなったことを無かったことにします。

 

生類憐みの令は無くなり、金の含有量を元に戻しました。

 

これによりこれ以上の支出は止まりましたが、使ってしまったお金は元には戻りません。

 

しかし、新井白石の時にはこれらに対応する手段がなかったのです。

 

そして幕府の権威は同時に下がってしまいます。

 

③徳川吉宗の政治で財政立て直し!

(徳川吉宗 出典:Wikipedia

 

 

こうした時代背景の中で、徳川吉宗は政治を行うことになります。

 

まず、吉宗がおこなったことは新井白石をクビにすることです。

 

そして、幕府の財政を立て直すためにおこなった政策の1つが足高の制でした。

 

徳川吉宗は幕府の信頼を取り戻すためにも、財政を立て直すためにも様々なことをおこないました。

 

それらの政治改革を享保の改革と言い、上げ米の制もこの改革の1つです。

 

 

上げ米の制の内容

 

 

上げ米の制は、各大名に対して1万石につき100石を納めれば参勤交代で江戸に滞在する日数を通常であれば1年ですが、半年で良いとするものでした。

 

 

参勤交代とは簡単に言えば、自分の治めている土地と江戸を一年おきに行き来する行事のことです。

 

現代のように車や新幹線はないので、大名行列を作って行き来をしていましたのです。

 

それらの費用と江戸での滞在費は全て自分たちで用意しなければならず各藩の大名たちには大きな負担となっていました。

 

この政策は大名に対して金銭的な負担をかけることで江戸幕府に反旗を翻すための資金を削る目的があったと言われています。

 

それが、半分の期間になるので各大名からは喜ばれました。

 

上げ米の制の影響

 

上げ米の制を実施することで幕府の収入は増え、幕府の収入、187000石のうち10パーセントは上げ米の制から得た収入になりました。

 

そして、こうした米に関する政策をおこなったので、徳川吉宗は米将軍と呼ばれるようになったのです。

 

幕府の財政は増えたとともに、収入が安定し改革は上手くいっていました。

 

しかし、上げ米の制の結果、幕府の財政は各藩の年貢米頼みであることが露見する形になり幕府の権威は落ちていくとともに、これから幕末に向けて各藩が資金を確保できるようにしてしまいました。

 

その結果、幕末に各藩が力を持ち尊皇攘夷運動ができるだけの資金を確保できるようになってしまいます。

 

そして、次の寛政の改革、天保の改革へとつながっていくことになります。

 

 

享保の改革の他の政策!

 

 

上げ米の制の他にはどのような政策を行ったのでしょうか、見ていきましょう。

 

享保の改革でおこなった政策は主に以下の7つです。

 

享保の改革の内容

・足高の制

・目安箱の設置

・公事方御定書の発布

・上げ米の制

・新田開発

・定免法

・質流し禁令

 

ひとつひとつ簡単に解説していきます。

 

①足高の制

足高の制とは、当時幕府の役職に就くためには石高を一定基準以上持っていなければなりませんでした。

 

そのため、優秀でも石高の少ないものは幕府の役職に就くことができなかったのです。

 

そこで、優秀だが石高の少ない人に対して役職に就いている間は米を支給し役職を持って働けるようにした制度です。

 

②目安箱の設置

目安箱の設置は、民衆の意見を聞き入れ、幕府の権威を復活させるべくおこなった内容です。

 

目安箱の影響により、今で言う病院の小石川養生所や今で言う消防署の町火消しが設置されるようになりました。

 

 

③公事方御定書の発布

公事方御定書は、裁判の基準について記したもので、明確な刑罰の基準が記されていました。

 

上巻と下巻に分かれていて上巻では警察法令関係をまとめ、下巻には刑法や刑訴、民訴などが過去の判例をもとにまとめられていました。

 

このように、さまざまな改革をおこない幕府の権威回復に努めました。

 

④新田開発と定免法

新田開発を奨励して幕府の財源が安定するように米作りを奨励しました。

 

そして、米作りが盛んになると幕府の財源確保のために定免法が適用されます。

 

定免法とは、年貢の割合を一定とするものです。これにより、幕府の財政は安定するようになります。

 

 

⑤質流し禁令

質流し禁令とは、農民が借金の担保として水田を取られそうになった場合には水田を取ることはできないというものです。

 

水田を取られては農民は米を作ることができず、幕府の財源が減ってしまうことを恐れての対応でした。

 

これらの対応により幕府の財源が安定するように努めていました。

 

まとめ

 上げ米の制は、江戸幕府八代将軍徳川吉宗が実施した政策である。

 上げ米の制の狙いは失墜した幕府の権威回復と財源の回復と安定させること。

 上げ米の制の内容は治めている領地1万石につき100石を納めることにより参勤交代で江戸に滞在する日数を1年から半年にすることのできる制度である。

 上げ米の制を含めた複数の政策を享保の改革と呼ぶ。