現代において、お金が欲しい時にはアルバイトを増やそうと考えたりするものです。

 

しかし、江戸時代に入ると幕府や藩は自分の領地の収入を上げるためにアルバイトではなく新しい田んぼを作ることで必死でした。

 

今回は江戸時代の時に特に行われた『新田開発(しんでんかいはつ)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

新田開発とは

 

 

新田開発とは、普通なら田んぼにできない土地を開拓して新たな田んぼを作ることです。

 

この政策は江戸時代に入ってから行われ、この政策をおこなうことによって領地の石高(土地の生産性)を上げていきました。

 

新田開発ができたわけ

①農具の発展

この頃の農民は田んぼから取れたお米を年貢として藩や幕府に納めていたので、そのための農具などが発展していきました。

 

特に有名なのが備中くわ・踏車・千歯こき

 

備中くわ(びちゅうくわ)は、元々一枚の大きな刃だったくわをフォーク型の刃に改良してより簡単に土地を掘ることができるようになりました。

 

そのため、普通のくわなら到底使えない荒れ果てた土地も備中くわがあれば田んぼとして使えるようになり、お米の生産量も増えていきます。

 

踏車(ふみぐるま)は、室町時代の頃に使われていた竜骨車という水が届かないところに水を入れる機械を改良したもので、これによってより効率的に田んぼに水を行き渡らせることができるようになりました。

 

千歯こき(せんばこき)は、お米を脱穀するための機械でこれによってお米の穂ごと一気に脱穀できるようになり効率がめちゃくちゃ上がりました。

 

②土地の大規模調査

江戸時代に入ると幕府や藩などは自分たちの土地をくまなく調査するようになります。

 

その調査などから川や湖からの距離や土地の傾斜などを測りながら判断して水路を設備し新田を作っていきます。

 

こうすることによってこれまでは棚田など傾きがなかったら無理だった開拓を平地でもできるようになりました。

 

さらに宮崎安貞の農業全書という農業に関するハウツー本が出版されて農民たちの農業の仕方などの手本として使われていきました。

 

新田開発の種類

①幕府や藩の新田開発

江戸時代の最初の頃は新田開発は幕府がやっていました。それもそう。取れたお米は幕府のものになりますからね。

 

幕府は代官見立新田といって、全ての幕府領(天領)の調査をして少しでも田んぼを作れる可能性があればその村に新田開発に必要な農具や新田を作らせる許可を出しました。

 

そして、その許可を受けた村はその土地を開墾して新たな田んぼを作っていきます。

 

藩も同じように藩の領地をくまなく調査して田んぼが作れそうな所の農民に農具を貸し出したりして新田開発を行なっていました。

 

②農民たちの新田開発

新田開発を行なったのは武士だけではありませんでした。

 

例えば農民なんかも新田開発をしています。

 

農民たちは土豪開発新田といってもその農村の中でも特に勢力があった土豪という人たちが中心となって新田開発を行なっていました。

 

さらに、村請新田といっても土豪中心ではなく、農民たちが話し合って農民たちだけで作った新田もありました。

 

③商人たちの新田開発

江戸時代に入ってだいぶたつと新田開発は幕府や藩ではなく商人たちが主にやっていくようになりました。

 

この商人が行った新田開発のことを町人請負新田と言います。

 

この町人請負新田で最も有名なのは鴻池という豪商です。今でも大阪府東大阪市には鴻池新田という地名が残っています。

 

町人請負新田のいいところは新田開発をしてから数年間は年貢を納めなくてもいいという所。

 

そこに目をつけた鴻池ら商人たちは幕府に新田開発の手助けをしたらお金を貸してあげるという甘い誘惑を幕府に仕掛けて幕府の資金援助を受けながら新田開発を進めていきました。

 

鴻池は沼地や池などを丸ごと干拓させて新田を作っていきます。その作った新田の土地は現在の東大阪市一体全てとも言われており、鴻池の財力や影響力の強さなどがわかります。

 

さらに数年間は年貢がとられないため、数年間のお米の収穫などで商人たちは何もせずともぼろ儲け。

 

そして、その儲けを使ってまた新たに新田を開発していくというサイクルを作り鴻池などの豪商などは幕府や藩を超えるぐらいの力を持つようになっていきました。

 

新田開発の成果

 

江戸時代に行われた新田開発によって太閤検地ごろには1800万石だった日本の総石高も3000万石にアップしました。

 

これによって藩や幕府などの収入なども増え、財政は少しは潤うことになります。

 

新田開発の代表例

新田開発の代表的なものと言ったら鴻池の新田開発の他にもありました。

 

例えば、木曽川付近の新田開発と紫雲寺潟の干拓などが有名です。

 

木曽川付近の三角州は新田開発が行われるまでは沼地でしたが、水を引き上げて田んぼとして使えるように改良しました。

 

この時に洪水から身を守るために作られたのが輪中というものです。

 

紫雲寺潟の干拓は鴻池新田に並ぶ町人請負新田の代表例でこの干拓工事によって6キロにも及んだ巨大な沼地は全て田んぼへと変わり、米の収穫量が劇的に増大しました。

 

新田開発の失敗例

(現在の印旛沼 出典:Wikipedia

 

 

新田開発自体成功に終わりましたが、全てが成功というわけにはいきませんでした。

 

特に有名な新田開発の例が印旛沼の干拓です。

 

印旛沼とは今の茨城県にあった超巨大な沼地です。

 

江戸時代の始めの方に利根川を東側にずらす工事が行われて印旛沼一帯の田んぼや村は利根川の氾濫などによって度々水害が起こっていました。

 

そこでこの印旛沼を江戸湾に繋げて、もし川が氾濫しそうになっても沼の水を江戸湾に流せるようにしたかったのです。

 

しかし、この印旛沼の干拓は工事中の水害や莫大な費用から全然うまくいかず、工事を推し進めた田沼意次はこの干拓の失敗が原因となって失脚する羽目になってしまい、結局江戸時代にはこの印旛沼は干拓することはできませんでした。

 

ちなみに印旛沼の干拓に成功するのは江戸時代が滅亡してからから101年後の1969年でした。

 

まとめ

 新田開発とは本来は使えない土地に新しく田んぼを作ること。

 新田開発の背景には農具の発展や測地などが関係していた。

 新田開発は最初の頃は幕府や藩がやっていたが、のちに鴻池などの商人中心となっていった。




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