【超然主義とは】簡単にわかりやすく解説!!意味や経過・黒田清隆の演説について

 

明治になり日本は議会という意見を言う場を開いて日本の政治の行く末を決めていました。

 

その中には日本の最高の意思決定機関である内閣がありました。

 

内閣は明治維新を先導した薩摩と長州出身者から構成されていて絶大な権力を持っていたので、議会でも存在感が非常にありました。

 

そして、そのような内閣の存在感をさらに大きくしたのが『超然主義(ちょうぜんしゅぎ)』です。

 

超然主義という名前はかっこいいけど、実際どのようなことをしてどう影響を与えたのかわかりにくいですよね。

 

今回はこの超然主義とはなにか?そして超然主義が議会に与えた影響など、簡単にわかりやすく解説していきます。

 

超然主義とは?

(1889年 憲法発布略図 出典:Wikipedia 

 

 

超然主義は外部の影響を全く気にせず、超然(平然)とした態度で独自の意見や立場を貫く主義のことです。

 

この超然主義は1889年(明治22年)から1924年(大正13年)まで続いていました。

※上の期間でも超然主義を採用しない内閣もあり、まちまちですが本格的に採用されなくなるの1924年からでした

 

前述したように当時の議会は内閣が最高権力を持っていました。

 

超然主義を採用した総理大臣の内閣は政党の意見に左右されずに行動していました。つまり、内閣が独占して政治の方針を決めていました。

 

そして、この主義を採用した内閣は超然内閣と呼ばれていました。

 

超然主義の始まりは第二次黒田清隆内閣、終わりは清浦圭吾内閣です。

 

ちなみに、第二次黒田清隆内閣の1889年では日本初の憲法である大日本帝国憲法が発布され、清浦圭吾内閣の1924年には第二次護憲運動が起こっています。

 

 

超然主義の始まり「きっかけは黒田清隆の演説」

(黒田清隆 出典:Wikipedia

 

 

黒田清隆(第二次黒田清隆内閣)は大日本帝国憲法が発布された1889年の212日に鹿鳴館で超然主義演説を行いました。

 

ちなみに前日の211日に大日本帝国憲法が発布されています。

 

これには伊藤博文も同意していたようで、翌日の213日に超然主義演説と同じような主張をした演説を行いました。

 

しかし、伊藤博文と共に大日本帝国憲法を作ったメンバーである井上毅(いのうえこわし)、伊東巳代治(いとうみよじ)、金子堅太郎は超然主義に対して批判的でした。

 

それは何故かというと超然主義はドイツのビスマルクが行った支配者が独断で思いのままに国の方針を決める政治(専制政治)と何ひとつ変わらないからということでした。

 

同じ大日本帝国憲法を作ったメンバーでも全員が超然主義に賛成するのではなく、反対もいたという点が面白いですね。

 

超然主義は問題が多い主義だった

超然主義が表明され、採用された議会では自由民権運動の流れを組む民党という野党勢力が激しく超然主義に対抗しました。

 

そして、各内閣が行った政策や事件が超然主義に対する国民の反感を買ってしまいました。

 

以下は反感を買ってしまった政策や事件です。

✔ 黒田清隆内閣

民党分裂工作や外務大臣の大隈重信が条約改正交渉に失敗したこと。

 

✔ 第一次山形有朋内閣

民党買収による予算の追加。

 

✔ 第一次松方正義内閣

政権を保有する人が邪魔な政党を排除するために選挙に干渉してしまった選挙干渉事件を起こしてしまう。

 

主に3つの内閣が起こしたことが、国民の超然主義に対する反感を買ってしまうことになるのです。

 

そして、国の未来を決めると言っても過言ではない国家予算を決める議会は野党である民党の同意も必要となります。

 

そのために各内閣は上に書いたような政策を行って無理やり民党の同意を得ようとしたと考えられます。

 

非常にグレーなことをしていますが、そのようにしてまで予算の確保をしたかったのは、当時の日本にとって課題である富国強兵殖産興業の強化政策を実施したかったからでした。

 

 

このような状況をみて伊藤博文は考えを改めて超然主義を根本から見直す動きを取り始めました。

 

伊藤博文は自分の掲げる理想の近代国家の実現のため1900年に立憲政友会という政党を結成し、内閣政府の内側から否定を行いました。

 

超然主義の終わり

(内閣総理大臣就任時の清浦奎吾 出典:Wikipedia

 

 

1924(大正13)に山形有朋の側近の清浦圭吾が内閣総理大臣となりました。

 

清浦圭吾は超然主義を採用していたので、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣以外を全て※貴族院議員で独占する超然内閣を作り上げました。

 

(※貴族院は政党が議会で議論を決める政党政治を嫌っていました。そして、超然主義を採用していた清浦圭吾も政党政治の排除を行いたかったので、利害は一致し貴族院を背景に超然内閣を作りました。)

 

しかし、時代は大正時代。超然内閣は時代遅れの産物となりつつありました。

 

その中で清浦圭吾内閣は立憲政友会や憲政会、革新倶楽部の三政党から成る護憲三派の選挙運動を妨害する工作を行いました。

 

これが護憲三派のみならず国民からの反発を大きく買ってしまい、この年に起きた第二次護憲運動によって清浦圭吾内閣(超然内閣)は倒されました。

 

 

大正時代に起きた政治や社会や文化の各方面が自由に物事を決め、国民の意見を大きく反映した政治を行う風潮である大正デモクラシーの前には超然主義は成すすべはありませんでした。

 

 

これにより、明治時代を代表する政治体制であった藩閥政治は事実上の終わりを向かえ、政党政治へとシフトチェンジをしていきます。

 

まとめ

 超然主義は政党や国民の意見に左右されず、政治を行う主義のこと。超然主義を採用した内閣は超然内閣と呼ばれている。

 超然主義は第二次黒田清隆内閣の時の黒田清隆の演説が超然主義の始まり。

 超然主義は専制政治と同じことをしていると批判する人もいた。

 超然内閣は議会で民党と対立し、その対抗策が国民の反感を買ってしまった。

 伊藤博文は最初は超然主義に同意でしたが、考えを改め自ら立憲政友会を結成し超然主義を否定していくようになった。

 清浦圭吾内閣の時に大正デモクラシーの風潮と第二次護憲運動によって清浦圭吾内閣は倒され、超然主義もこれ以後は採用されることはなかった。

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超然主義(超然内閣)の大まかな政治闘争の流れ

・超然内閣VS民党→超然内閣VS民党、立憲政友会→超然内閣VS護憲三派(立憲政友会、憲政会、革新倶楽部)

という流れで超然主義は多くの政治闘争を行っていました。

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