【尊王攘夷とは】簡単にわかりやすく解説!!意味や生まれた背景・その後など

 

約260年間続いた太平の世である江戸時代がわずか10年ちょっとで明治時代に変わった理由が尊王攘夷という考え方にあります。

 

そして、この短い期間に目まぐるしく様々な出来事が起こるので、知識が混ざってしまいやすいです。

 

本日は、そのような重要で間違えやすい『尊王攘夷』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

尊王攘夷とは

(尊王攘夷志士 四十六人像 出典:蛋蛋赞

 

 

尊王攘夷とは、動乱の江戸時代末期に生まれた天皇を尊重し、外国人を日本から追い出そうという考え方のことです。

 

天皇を尊敬する、つまり天皇を第一に考え大切にするという『尊皇』の考え方と、外国人を追い出そうという『攘夷』の考え方が一つになったものです。

 

これだけではわかりにくい部分があるので詳細を見ていきます。

 

尊王攘夷誕生の背景

(黒船来航の様子)

①ペリー来航と開国

尊王攘夷が起こるきっかけは、1853年のペリー来航です。

 

それまでも日本近海にはロシアのラクスマンなど外国船が接近してきます。日本は当時鎖国政策を取っていましたが、ペリーの来航をきっかけに長く続いた鎖国政策が終わり開国します。

 

 

②ハリスと日米修好通商条約

ペリーの来航後、日本には多くの外国人が来ていましたが、貿易はしていない状態でした。

 

そこで、アメリカ総領事のハリスと江戸幕府大老の井伊直弼との間で、1858年に日米修好通商条約が締結されます。

 

 

しかし、この条約は不平等な内容が記載されていました。それが以下の2点です。

 

⑴ 関税自主権がない

関税自主権とは、他国の製品を輸入するときの関税を決めることのできる権利のことです。

 

例えば、アメリカから安い小麦を輸入するとします。安い小麦が大量に日本に入ってくると日本の農家は打撃を受け生活が成り立たなくなってしまいます。

 

そのため、関税をかけることで値段のバランスを取ります。しかし、この関税を決める権利が無かったのです。

 

⑵ 領事裁判権を認める

領事裁判権とは、日本で罪を犯した外国人を外国の法律や裁判で裁く権利です。

 

例えば、アメリカ人が日本で殺人事件を起こした場合に日本の法律では無くアメリカの法律でアメリカの領事館により裁きを委ねることになります。

 

しっかりとした裁きをしてくれれば良いのですが、実際には軽い刑になることが少なくありませんでした。そのため、日本人の反発を招くことになります。

 

③日米修好通商条約の結果

日米修好通商条約を締結した結果、日本は混乱に陥ります。

 

関税自主権が無いことで、安い外国製品が大量に日本国内に入り、日本の産業は打撃を受けます。

 

また、領事裁判権を認めたことで外国人の犯罪が後を絶たない状況となります。さらに、罪を犯した外国人は無罪に近い状態で釈放されることになるのです。

 

その結果、日本人は外国人に対して嫌悪感を抱きます。

 

尊王攘夷運動の勃発

①尊皇運動のおこり

尊皇とは、天皇を大切にするということです。

 

なぜ、天皇を大切にするかというと、日米修好通商条約は天皇の許可を得ずに井伊直弼とハリスの間で勝手に結ばれた条約だったためです。

 

天皇をないがしろにした結果が社会の混乱だと尊皇運動が始まります。

 

②攘夷運動のおこり

日本人は外国人を追い出せと、攘夷運動を開始することになりました。攘夷とは外国人を追放することです。

 

先に説明した尊皇運動と結びつき、尊王攘夷運動となります。

 

有名なものが薩摩藩の生麦事件薩英戦争と長州藩の下関四国艦隊砲撃事件です。しかし、外国の勢力は強く日本の攘夷運動は失敗に終わります。

 

 

尊王攘夷運動の結果

(井伊直弼 出典:Wikipedia

①井伊直弼の暗殺

攘夷運動に失敗をした尊王攘夷派の人間は、攘夷が難しければ日米修好通商条約を結んだ元凶である幕府を倒そうと倒幕の流れに向かいます。

 

まずは、日米修好通商条約を結んだ大老の井伊直弼です。

 

井伊直弼を暗殺しようと動き出しますが、先に井伊直弼が暗殺計画を知り、安政の大獄で暗殺を計画したもの、自分の政策を非難する人間を処罰していきました。

 

これにより、さらに井伊直弼への恨みを募らせた尊王攘夷派の人々は、もう一度暗殺を決行します。

 

それが、有名な桜田門外の変です。これにより、大老の井伊直弼は暗殺されるわけです。

 

 

②公武合体

尊皇攘夷運動に焦りを覚えた幕府は、朝廷と幕府が手を取り合って協力し事態に対応しようと考えます。この動きのことを公武合体と言います。

 

老中首座となった安藤信正は孝明天皇の妹である和宮と将軍の徳川家茂との結婚によって幕府の権威回復を狙いました。朝廷側も後々、攘夷運動を実行する場合には幕府と協力する必要性があると感じ、岩倉具視などがこれに協力しました。

 

また、薩摩藩の島津久光は自ら薩摩藩の尊王攘夷派を止める寺田屋事件を起こしました。朝廷から幕府に勅使を送らせ、公武合体派の一橋慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に就けることにも尽力をしています。そして、安政の大獄で処分を受けた山内容堂らの処分も撤回させ、公武合体派の勢力を強化します。

 

このように、途中までは公武合体は上手くいったように見えましたが、尊王攘夷派の動きは止まらずに、天誅と称して人々を暗殺していきました。中心になって朝廷を動かしていたのは長州藩の人間です。

 

そして、当時の孝明天皇は攘夷論者でした。このことを利用して長州藩や尊王攘夷派志士は佐幕派や公武合体派を排除して朝廷を動かしました。

 

1863年1月将軍・徳川家茂に攘夷実行を確約させ、松平春嶽も政事総裁職を辞任する動きとなったのです。

 

他の公武合体派藩主も京都を離れ、京都での公武合体派は危機的な状況に追い込まれます。そのうちに、綻びが出始めてしまい、公家と武士が協力をする体制は崩れていきます。

 

 

③倒幕への歩み

(坂本龍馬 出典:Wikipedia

 

 

公武合体も失敗に終わり、尊王攘夷運動は勢いを増すことになります。

 

ついに、薩摩藩と長州藩といった、大きな勢力を持った藩が坂本竜馬の仲立ちにより薩長同盟を結ぶことになります。薩長同盟は倒幕へと駒を進めていきます。

 

④大政奉還

倒幕の動きに対して時の将軍、徳川慶喜大政奉還を決意します。これは、幕府が持っていた政権を全て朝廷に返すというものでした。

 

この時に徳川慶喜が考えていたことは、政権を返上しても幕府、徳川家の持っていた石高は全国の3分の1ほどあり、日本の動きの中心に居ることができると考えていました。

 

また、倒幕派と争っている間に外国が日本を占領し、植民地にすることも懸念していたと言われています。こうした事態を避けるために大政奉還を実施しました。

 

英断であったと、坂本竜馬も徳川慶喜を絶賛していたくらいです。

 

 

⑤王政復古の大号令

尊王攘夷派は、徳川の大政奉還に対して矛を収める先が無く困惑します。

 

その結果、王政復古の大号令を出し、持っている土地も差し出すように徳川に突きつけます。これには徳川家も我慢できず、戊辰戦争が始まります。

 

 

⑥戊辰戦争

尊王攘夷派の動きはとどまることを知らず、いよいよ倒幕に乗り出します。

 

戊辰戦争では新型軍備を固めている薩長同盟が優位に戦況を進め、結果として倒幕が成立します。そして、明治新政府が完成していきます。

 

 

まとめ

・尊王攘夷運動とは、天皇を大切にするという尊王という動きと外国人を追い出せという攘夷がくっついた動き。

・尊王攘夷運動の結果、倒幕になる。