今回は1864年(元治1年)8月に下関で起きた『四国艦隊下関砲撃事件』

 

イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4カ国の連合艦隊による下関(長州)への攻撃とはどのような事件だったのか?背景や経過・その後などについて、わかりやすく解説していきます。

 

四国艦隊下関砲撃事件とは

(連合国によって占拠された下関の砲台 出典:Wikipedia

 

 

1864年(元治1年)8月5日から7日にかけて、イギリス・フランス・アメリカ・オランダの4国の連合艦隊によって長州藩の馬関(現在の下関市)と彦島の砲台を砲撃し、4国の軍隊がこれらを占拠・破壊した事件のことです。

 

下関戦争とも呼ばれています。

 

ではなぜ、このような事件が起きてしまったのでしょうか。その背景を紐解いていきましょう。

 

四国艦隊下関砲撃事件の背景

(黒船来航の様子)

①開国と通商条約

1853年(嘉永6)にペリーが浦賀へ来航し、幕府は日米修好通商条約を締結します。イギリス・フランス・ロシア・オランダ各国とも通商条約を締結し、日本の鎖国は完全に崩壊されます。

 

各国と通商条約を結ぶことを、時の天皇、孝明天皇は反対でした。しかし、勅許(天皇の許可)を得ないまま、通商条約は締結されます。

 

これにより、江戸幕府に不満を持つ攘夷派(外国人を国内に入れないという考えをもつ)は、朝廷にいる攘夷派の公卿らと結びつくようになります。

 

 

②攘夷思想

通商条約締結などに反対する攘夷派を、大老井伊直弼は弾圧します。これを安政の大獄といいます。

 

 

しかし、1860年(万延元)、水戸藩や薩摩藩の浪士により、井伊直弼は暗殺されてしまいます。(桜田門外の変)

 

 

桜田門外の変により、幕府の威信は大きく揺らぎ始めるのです。

 

同時に、開国と諸外国との貿易により、経済は混乱に陥り、開国を押し通した幕府に対する批判攘夷思想は全国的に広まっていきました。

 

③攘夷の実行

1863年(文久3)3月、第14代将軍徳川家茂が上洛します。朝廷は家茂に攘夷の実行を指示します。

 

幕府はこれに逆らえず、5月10日をもって攘夷を実行することを朝廷に約束し、全国の藩にこれを通達しました。

 

このとき、幕府は攘夷の決行は諸外国に対して勝ち目のない戦争をすることだ。損害は計り知れないという趣旨もあわせて伝えていました。

 

長州藩による攘夷決行

 

1863年(文久3)5月10日、朝廷と約束した攘夷実行の期日が訪れます。

 

攘夷運動の中心だった長州藩は、日本海と瀬戸内海を結ぶ海運の要所、馬関(下関)海峡に砲台を整備しました。

 

①長州藩による攻撃

長州藩は攘夷期日がくると早速、アメリカ商船に向けて攻撃を実施。商船は逃走し、外国船を打ち払ったことで、朝廷から褒められ、士気が上がります。

 

つづいて、フランスの船が海峡に入ったところを砲撃。事情がわからないフランス側では死傷者が出てしまいます。

 

(フランスの通報艦の被害の様子 出典:Wikipedia

 

 

そして、鎖国時代から幕府と友好関係にあったオランダ船にも攻撃。多くの死傷者が出てしまいました。このときの長州藩によるアメリカ、フランス船に対する攻撃は、当時の国際法に違反するものだったとされています。

 

②諸外国による報復

長州藩の攻撃を受けて、アメリカは幕府に抗議します。幕府は自分たちで長州藩の処理をすると言いましたが、聞き入れられず、アメリカは報復攻撃を決定します。6月1日、アメリカによる報復攻撃によって、貧弱な長州藩の海軍は壊滅状態に陥り、下関の砲台も甚大な被害を受けました。

 

6月5日にはフランスの砲撃攻撃が開始。海・陸での戦いにも敗れ、長州藩は欧米の軍事力の強さを思い知ることになりました

 

報復攻撃を受けて、長州藩では高杉晋作によって下級武士、農民、町人から奇兵隊が結成されます。また、破壊された砲台を増強し、攘夷の姿勢を崩しませんでした。

 

長州奇兵隊 出典:Wikipedia

 

四国艦隊下関砲撃事件の勃発!四国による報復攻撃

(フランス艦隊による報復攻撃 出典:Wikipedia

①イギリスによる四国連合

当時、対日本の貿易でイギリスは順調な利益を上げていました。下関海峡貿易の重要な要であったため、直接的な被害は受けていませんが、海峡が封鎖されているのは由々しき問題でした。

 

また、長州藩が各国の報復を受けてなお、攘夷に徹する姿勢を崩さないことにより、幕府の開国政策が遅れるのではないだろうかという危機感が募っていました。

 

日本人に攘夷の不可能、開国の必要性を思い知らせようとイギリスの駐日公使オールコックは長州藩への懲罰攻撃を決意します。

 

この方針に、長州藩による攻撃を受けたアメリカ、フランス、オランダが参加を同意。1864年(元治元)4月、四国連合による武力公使が決定しました。

 

②四国連合艦隊による攻撃

1864年(元治元)8月5日、四国連合艦隊は長州藩の砲台に猛攻撃を開始します。

 

下関を守る長州藩側の兵力は奇兵隊など2000人弱。対して連合艦隊側は約5000人もの兵力がありました。また、大砲の数も足りず、木製の大砲をダミーとして用意していたといいます。

 

艦隊はすべて17隻あり、火力の差は歴然です。

 

砲台は次々破壊され、8日までに下関の砲台のほとんどが破壊されました。また、陸での戦いでも連合艦隊が持つ新しいライフル銃に、長州藩は大敗してしまいました。

 

四国艦隊下関砲撃事件のその後

(高杉晋作 出典:Wikipedia

 

 

四国連合艦隊による下関砲撃に敗れた長州藩は、諸外国と講和を結ぶことになります。そのときの使者には、奇兵隊を創設した高杉晋作が任じられました。

 

①講和

8月18日、四国連合艦隊と長州藩の間で、講和が成立します。

 

内容は、下関海峡の外国船通航の自由・外国船に必要な品の売り渡し(石炭や食物など)・悪天候時、船員の下関上陸の許可・下関砲台の撤去・賠償金300万ドルの支払いという5つの条件でした。

 

長州藩はこれら全て、反対せずに全て受け入れます。しかし、賠償金については長州藩ではなく幕府が支払うことになりました。

 

300万ドルという大金の支払いが、長州藩には不可能だということと、今回の諸外国に対する攻撃は、あくまで幕府からの「攘夷の実行」の命を受けて行ったものだとしたからです。

 

②下関賠償金

長州藩と四国連合艦隊によって成立した講和により、幕府は300万ドルという巨額の賠償金を背負うことになります。

 

幕府側はこれを受け入れ、まずは150万ドルを支払い、残りは明治維新後、新政府が1874年(明治7)年までに分割で支払いました。

 

③事件後の長州藩

四国艦隊下関砲撃事件(下関戦争)後、長州藩はこの戦争の敗北を受けて「攘夷は不可能だ」と思い知ることになります。

 

その後の長州藩は、イギリスに接近し、軍事力の増強に努め、攘夷運動から倒幕運動へ方針を変えていきました。

 

まとめ

・朝廷は江戸幕府が結んだ通商条約に反対だった。

・朝廷に指示され、幕府は「攘夷の実行」を諸藩に命じる。

・長州藩は下関海峡を封鎖して、諸外国の船に攻撃した。

・攻撃されたアメリカとフランスは報復攻撃をした。

・イギリス、アメリカ、フランス、オランダの4カ国で四国連合艦隊が結成される。

・攘夷の不可能を思い知らせるために、四国連合艦隊は長州藩に攻撃する。

・大敗した長州藩は、攘夷は不可能だと思い知り、倒幕運動へ転換する。




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