今から150年前の1868年、京都周辺は緊張状態にありました。

 

王政復古の大号令やその後の小御所会議の決定に納得がいかない旧幕府の軍勢が京都に迫りつつありました。

 

迎え撃つは薩摩・長州を主力とした新政府軍。まさに、戊辰戦争最初の戦いである鳥羽伏見の戦いが行われようとしていたのです。

 

今回は、そんな日本各地で激戦を繰り広げた『戊辰戦争(ぼしんせんそう)』について、きっかけや経過・結果・影響など簡単にわかりやすく解説していきます。

 

戊辰戦争とは?

(戊辰戦争時の薩摩藩の藩士 出典:Wikipedia

 

 

戊辰戦争とは、1868年1月の鳥羽伏見の戦いから1869年5月の箱館戦争までの一連の戦争のことをいいます。

 

薩長を中心とする新政府軍と旧幕府や反新政府の諸藩が戦った内戦でした。

 

戊辰戦争の背景

(長州藩の奇兵隊)

第二次長州征討の失敗。武士最強のはずの幕府が長州藩に負けた…

長州藩は第一次長州征討後に幕府に約束した「幕府に従います」という言葉を守りませんでした。

 

高杉晋作らが長州藩の中心となって幕府に歯向かったからです。

 

これに激怒した幕府は長州藩を攻撃。ところが、以前は幕府に味方した薩摩が今度は長州に味方します。ひそかに薩長同盟を結んでいたのです。

 

幕府軍は強くなった長州軍に各地で敗北。おまけに、14代将軍徳川家茂が急死したため、長州藩と戦うのを断念することになります。

 

これによって「なんだ、幕府弱いじゃん」となってしまい、幕府の権威は失墜しました。

 

 

大政奉還。幕府がないなら、討幕は不可能だよね!

長州藩・薩摩藩は公家の岩倉具視らと手を組み、討幕の密勅をもらうことに成功します。

 

 

天皇から「幕府を倒せ」とお墨付きをもらったのです。

 

これを知った15代将軍の徳川慶喜は大政奉還をおこない、幕府をなくして朝廷に政治の権利を返しました。

 

「じゃあ、幕府をなくすね。これで攻撃する理由はないよね!」という訳で、討幕の密勅は効果がなくなってしまいました。

 

 

王政復古の大号令。幕府がないなら、天皇が直接政治をやるぞ!

慶喜が大政奉還を行った狙いは、幕府がなくなっても慶喜が諸藩のリーダーとして国のトップに立ち続けることでした。

 

薩長や岩倉はこれを阻止するために明治天皇に王政復古の大号令を出させす。

 

総裁(トップ)は皇族の有栖川宮、有力藩主をなどを「議定」、各藩の実力ある藩士を「参与」に任命する三職の制度を作りました。

 

こうして、徳川慶喜を三職に入れず仲間はずれにした新政府ができました。

 

 

戊辰戦争のきっかけ

(日本史上最後の征夷大将軍。徳川慶喜 出典:Wikipedia

 

 

王政復古の大号令が出された12月9日の夜、御所内にある小御所で総裁・議定・参与による三職会議が開かれました。

 

会議の狙いは、いかに徳川慶喜の力を奪うかにありました。

 

三職の中でも土佐藩主「山内豊信」や越前藩主「松平慶永」らは慶喜を追い詰めることに反対していました。

 

一方、薩摩の大久保利通や公家の岩倉具視など王政復古のシナリオを描いた者たちは慶喜を追い詰めようとします。

 

結局、大久保・岩倉らが勝利し、慶喜に「朝廷の役職(内大臣)を辞任し、すべての領地を朝廷に返せ」(辞官納地)と要求することになりました。

 

この出来事をきっかけに、旧幕府と新政府が武力でぶつかることになります。

 

戊辰戦争の経過

(鳥羽・伏見の戦い。高瀬川堤での戦闘。

①戊辰戦争の第一ラウンド『鳥羽・伏見の戦い』

小御所会議の決定を聞いた徳川慶喜は、これを拒否して大坂城に入りました。

 

旧幕臣や会津藩・桑名藩の兵、およそ15000人が大坂から京都に向けて進撃しました。

 

1月3日の夜、京都の南にある鳥羽・伏見の地で両軍が激突。薩摩・長州を主力とする新政府軍は4000人でしたが装備に勝っていました。

 

しかも、1月4日に天皇の旗である錦の御旗を新政府軍が掲げたことで旧幕府側が激しく動揺し、淀藩・津藩が新政府軍に寝返りました。1月6日には旧幕府軍は敗走しました。

 

江戸開城。西郷隆盛と勝海舟の1対1の交渉

京都を出発した新政府軍は、東海道・中山道・北陸道の3つに分かれて進軍しました。

 

1868年3月13・14日、江戸の薩摩藩邸で西郷隆盛勝海舟が最後の交渉を行います。

 

その結果、徳川慶喜は江戸城を明け渡して謹慎することが決まりました。こうして江戸が火の海になることは避けられました。

 

 

上野戦争。旧幕臣が上野寛永寺に立てこもって反抗!

(上野戦争の図 出典:Wikipedia

 

 

すべての旧幕臣が江戸開城に賛成したわけではありませんでした。

 

一部の者は彰義隊を結成し、上野の寛永寺に立てこもりました。

 

しかし、大村益次郎らの新政府軍は彰義隊をわずか1日で打ち破りました

 

この戦いの結果、関東地方は新政府の支配下に置かれました。

 

北越戦争。新政府軍、はじめて苦戦!

北陸道を進む新政府軍は強敵に行く手を阻まれました。家老河合継之助率いる長岡藩です。

 

長岡藩は奥羽越列藩同盟の支援を受けて新潟港から物資を補給し粘り強く抵抗しました。

 

しかし、兵力に勝る新政府軍の前に長岡藩は敗退しました。

 

 

会津戦争。薩長に目の敵にされた会津藩の悲劇

関東・北陸で勝利した新政府軍は会津に向けて進軍します。

 

会津藩は幕末に薩長と激しく対立しました。

 

新撰組も会津藩の支配下でした。薩長の恨みを一身に背負っていたといってもいいでしょう。

 

会津藩を含む奥羽越列藩同盟軍と新撰組は白河口の戦いなどで善戦します。

 

しかし、母成峠の戦いに敗れ会津若松城を急襲され降伏に至りました。

 

白虎隊が飯森山で自害したのはこの時です。新撰組を含むまだ戦意を失っていなかった者たちは、蝦夷地に向かいました。

 

⑥蝦夷共和国の夢『箱館戦争(五稜郭の戦い)』

(蝦夷へ向かう旧幕府軍)

 

 

旧幕臣の榎本武揚らは蝦夷地五稜郭を占領し、松前を攻め落としました。

 

そして、そこで蝦夷共和国の建国を宣言します。

 

新政府は諸外国が戦争に口を出してくることを恐れ、五稜郭に軍を差し向けました。

 

函館湾での海戦や周辺地域を攻め落とした新政府軍は榎本に降伏を迫ります。新撰組の副長だった土方歳三も箱館近郊での戦いで戦死します。

 

こして、1868年5月、榎本らは降伏。戊辰戦争が終結しました。

 

 

戊辰戦争の結果と影響

(明治天皇の東京行幸 出典:Wikipedia

 

 

戊辰戦争の結果、新政府と戦った旧幕府勢力・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国は解体され、日本全国が新政府によって統一されました

 

また、この戦争による影響は以下の通りです。

 

外国からの干渉を避けることができた

戊辰戦争前、旧幕府はフランスの薩長はイギリスの支援を受けていました。

 

戊辰戦争が長引けばフランス・イギリスが参戦し、場合によっては植民地になっていた可能性もありました。

 

戦争が短期で終わったことで外国が介入することは避けられたのです。

 

②反対勢力を倒すことができた

新政府に反対する勢力を倒すことで、明治維新が行いやすくなりました。

 

まとめ

 戊辰戦争とは、鳥羽伏見の戦いから箱館戦争までの一連の戦争のこと。

 武力討幕を避けるため、徳川慶喜は大政奉還を行ったが、討幕派は小御所会議で辞官納地を慶喜に迫った。

 新政府のやり方に反発した旧幕臣らは鳥羽・伏見で戦いを起こし敗れた。

 江戸城は西郷隆盛と勝海舟の交渉により、無血開城となった。

 奥羽越列藩同盟は北陸戦争・会津戦争で敗北し崩壊。榎本武揚らの蝦夷共和国が箱館戦争で敗れ、戊辰戦争が終わった。

 戊辰戦争の結果、日本全国が新政府によって統一された。

 戊辰戦争が短期間で終わったことで、外国からの介入が避けられた。

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