明治時代初期の貨幣に関する法律は少しややこしいです。

 

新貨条例もありますし、国立銀行条例も一度主要な改正を挟んでいます。

 

今回はそのような明治時代の貨幣制度を整理しながら、国立銀行条例について詳しく見ていきたいと思います。

 

国立銀行条例とは

国立銀行条例とは、1872年(明治5年)国立銀行の設置について定めた法律です。

 

アメリカのNational Bankにならい殖産興業、不換紙幣(正貨と交換できない紙幣)の整理のために定められた法律です。この条例は、渋沢栄一が中心となって作られました。

 

(渋沢 栄一 出典:Wikipedia

 

まずは不換紙幣と兌換紙幣をおさらい

 

 

国立銀行条例はもとより明治時代の貨幣制度をよく知るためには不換紙幣兌換紙幣の違いと意味を理解しておかなければなりません。

 

違いは簡単で正貨と交換できないものが不換紙幣、正貨と交換できるものが兌換紙幣です。

 

正貨は時代によって異なりますが基本は金貨です(日本では銀貨が正貨の時代もありますがそれはまた習います)。正貨は法律で正貨とされた金属の貨幣のことで正貨を使って経済活動をします。つまりお金の基本のようなものです。

 

しかし、本物の金貨でやり取りするとなれば大量の硬貨でやり取りすることになって大変ですし、経済活動が滞るかもしれません。そもそも本物の金を持ち歩いていれば失くしたときも大変です。そこで金を持ち歩いたり、本当に使わなくて済むようにいつでも金と交換できる紙切れを政府のもとで発行します。それが兌換紙幣です。

 

特に金貨を正貨とする経済システムのことを金本位制、銀ならば銀本位制、金と銀の両方を正貨にしているなら金銀複本位制といいます。金本位制の元ではいつでも金と紙幣を交換できる保証の元はじめて価値を持ちます。

 

逆に言えば、政府が兌換紙幣として発行した紙幣でも金が流出するなどして金と交換できなくなったら不換紙幣になってしまいます。だから国内にある金の量で兌換紙幣の数は定められます。国内にある金の数を超えて兌換紙幣は発券できません。

 

 

国立銀行条例制定の背景・目的

①太政官札と民部省札

設立後まもない明治政府は戊辰戦争の戦費、殖産興業などの要因で大量のお金が必要でした。

 

そこで由利公正の建議で政府保証のもと、1868年にとりあえず明治政府内で使える不換紙幣である太政官札とそれを補助する民部省札を発行します。

 

しかし、当時の明治政府は江戸幕府が倒されてから時間も経っておらず、明治政府が国家として存続できるという信頼は日本国民の中にはなく、お金に対する信用もありませんでした。

 

たとえ明治政府が「この紙切れは1万円札だ」と言い張っても、金と交換できなければ明治政府がつぶれた時にはその1万円札が本当の紙切れに変わります。こんな状況では太政官札と民部省札の価値は一気に下落します。

 

1万円札と書いてあるのに1万円の価値もない紙幣があっては当然ですが経済活動は混乱します。貿易に従事する外国人をも巻き込んだ国際問題にまで発展し太政官札はなんとしてでも政府が回収しなければなくなりました。

 

②新貨条例

さらに明治政府は江戸幕府の貨幣制度も受け継いでいます。

 

江戸時代の貨幣制度は各地で藩札が流行して何千種類もの貨幣があったり、鋳造技術も未熟だったため硬貨でも価値が違ったりして円滑な経済活動が全くできない状況でした。

 

例えば・・・大阪で使えていたお金が北海道では使えないとか一週間後には持っている貨幣の価値が変動しているといった状況があったということです。江戸時代の貨幣、太政官札と民部省札、大量の貨幣制度が入り組んでいて収拾のつかない状況です。

 

そのため、明治政府は全国どこでも同じ価値で使える貨幣を整えようとしました。そこで明治政府は1871年に円・銭・厘を単位とする全国的な新しい貨幣制度を定めました。新しい貨幣制度、それが新貨条例です。

 

新貨条例の元では1円金貨を正貨とし1円金貨と交換できる紙幣を作りました。金貨と交換できる紙幣を作る、そう金本位制です(実際は銀貨とも交換できたので金銀複本位制です)。

 

新貨条例のもとでもとりあえず貨幣を統一するために明治通宝札という不換紙幣を発行し今まであった貨幣との引き換えを進めました。

 

 

国立銀行条例の制定とその後

(1873年 第一国立銀行発行の十円兌換券 出典:Wikipedia

①国立銀行条例の失敗

明治政府は1872年に明治通宝札を兌換紙幣である国立銀行券に引き換えるべく、国立銀行条例を制定しました。

 

国立銀行条例という名前ですが、国立銀行は民間の銀行です。政府は民間に銀行を設立してもらい民間銀行に兌換紙幣の発券を任せようとしたのです。

 

しかし、民間は兌換紙幣を発行できるほどの資金力を持っておらず4行しか設立されませんでした。もちろん政府が必要とする発券量には到底及びませんし流通も滞りました。

 

②国立銀行条例1度目の大改正

そこで政府は1876年に国立銀行条例を改正し国立銀行の設立条件を緩和します。

 

ちょうど同じ時期に秩禄処分が行われ、華族と士族に大量の金禄公債証書が渡ります。その金禄公債証書で銀行に出資してもよいとしたのです。

 

 

さらに、お金が滞っては流通もままならないので、国立銀行の兌換義務をなくし資本金の8割まで紙幣を発行できるようにしました。するとみるみるうちに銀行が設立され最終的には153行にまで膨れ上がり大量の不換紙幣が流通し通貨量は急激に増えました。

 

さらに1877年には西南戦争の戦費調達のため、政府も不換紙幣を発行し再び貨幣の統一が崩れ、通貨が急激に増えすぎたため通貨の価値も下落しました。明治政府も財政難に陥ってしまいました。

 

 

③国立銀行条例2度目の大改正

こうした状況を変えるべく大蔵卿松方正義によって、1882年に日本銀行が設立されました。

 

1883年には国立銀行条例を大きく改正し国立銀行の発券業務を停止させ普通銀行に変えていきました。そして、政府が設立した日本銀行が一括して発券業務を行うようにしました。こうすることで貨幣の統一を取り戻していったのです。

 

また、政府は増税と緊縮財政によって通貨の流通量を減らしました。そうすると全体で必要な紙幣の数は減り不換紙幣を減らすことができます。さらに増税と政府の支出削減によって政府の資金に蓄えができそれを正貨に変えていきました。

 

そして1880年代中頃には必要な紙幣の数と正貨の数が揃いはじめ、日本銀行券の発券が始まり翌年には政府紙幣の兌換も始めました。ここでようやく本格的な兌換紙幣が流通していったのです。

 

ただ留意しなければならないのは松方財政下での正貨は銀貨ですので当時は銀本位制です。これが完全な金本位制へと変わるのは日清戦争で日本が清に勝利し賠償金を得てからです。日清戦争の賠償金を使って金を蓄え金本位制を整えました。

 

まとめ

・新貨条例では今までの貨幣を整理するため不換紙幣が発券された。

・国立銀行条例は渋沢栄一主導のもと不換紙幣の交換と殖産興業を目的に整備された。

・国立銀行は民間の銀行で政府が紙幣の発券業務を認めた銀行のことを指す。

・国立銀行条例のもとでは銀行がほとんど設立されず後に改正された。

・改正後の国立銀行条例では紙幣の兌換義務が免除されまた金禄公債証書でも出資できた。

・改正後に大量の銀行が設立され大量に不換紙幣が流通しインフレが発生した。

・松方正義は日本銀行を設立し日本銀行に発券業務を集中させた。

・日本銀行設立後、国立銀行の発券業務は停止され普通銀行へと変わっていった。




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