日本の隣国の一つであるソ連(今のロシア)。日露戦争後は樺太(今のサハリン)で国境も接していました。

 

共産主義の国であるソ連と日本は思想的に合わない面もありましたが、お互いの利害が一致し中立条約を結んでいた時期もありました。

 

今回はそんな日本とソ連の間で結ばれた「日ソ中立条約(にっそちゅうりつじょうやく)」について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

日ソ中立条約とは? 

(日ソ中立条約の調印書 出典:Wikipedia

 

 

日ソ中立条約とは、日本とソ連の間で1941年(昭和16年)に締結された中立条約です。

 

お互いに攻撃しない、という意味の「相互不可侵」や、一方が第三国との戦争になったときに中立を守ることなどが約束されました。

 

有効期間は5年。期間満了の1年前までにどちらかが通告しない限りは、さらに5年延長されるものとなっていました。

 

日ソ中立条約が結ばれた理由

①条約締結前の世界情勢

1929年に起きた世界恐慌に対して、世界の主要国は主に3つのグループに分かれていました。

 

すなわち、

・アメリカ・イギリス・フランスなど自国内や植民地に豊富な資源を持ち、好況に対して有効な政策の打ち出せた「資本主義陣営」

・日本・ドイツ・イタリアなど植民地や資源に乏しく積極的な対外進出によって活路を見出そうとする「全体主義陣営」

・ソ連のように計画経済によって世界恐慌の影響を受けていない「共産主義陣営」

の3つです。

 

日本やドイツなどが植民地や資源を求めて海外進出をすると、すでに権益を持っているイギリスやフランスと衝突します。

 

事実、日本は満州事変と日中戦争で中国大陸へ進出しており、アメリカやイギリスとの関係が悪化していました。

 

②日本とソ連の接近

 孤立を深める日本はアメリカやイギリスと対抗するために、まずはドイツと仲良くなろうと接近します。

 

こうして締結されたのが「日独伊三国軍事同盟」です。

 

 

当時の近衛内閣の外相であった松岡洋祐はこれをさらに発展させ、ソ連も含めた「日独伊ソ四国同盟」にすることでよりアメリカに対して優位に立とうと画策します。

 

 

(松岡洋祐 出典:Wikipedia)

 

 

資本主義VS全体主義&社会主義、にしようとしたんですね。

 

当初、ソ連は日本との条約締結にあまり乗り気ではありませんでしたが、ドイツがソ連に攻め込むという情報が入ってきました。

 

ドイツとソ連が戦う事態になってしまうと、日本の四国同盟プランは崩れてしまうのですが、ソ連からするとドイツと日本に挟み撃ちされてしまう可能性が出てくるので困ります。

 

そこでソ連は考えを改め条約を結ぶことにしました。

 

この結果両国の思惑が一致し、1941413日にモスクワで日ソ中立条約が調印され成立しました。 

 

日ソ中立条約の内容

 

(条約署名の様子 出典:Wikipedia)

 

 

日ソ中立条約では日ソ両国の領土保全と相互不可侵第三国と交戦した場合の中立の維持を取り決め、期間は5とされていました。

 

軍事同盟の場合はどちらが戦争になった場合は協力する必要性がありますが、中立条約の場合はそうでもありません。

 

そして、「中立」の意味も解釈次第で武力行使に関わらない経済援助なら構わないなどいろいろ取れました。

 

日ソ中立条約では中立の定義まではされていませんでした。

 

条約締結後のそれぞれの国の状況

①日本は南方へ進出

幕末から戦前にかけての日本には対外進出について2つの考え方がありました。

 

北進論と南進論です。北へ進むとソ連とぶつかります、南へ進むと東南アジアに植民地を持っている英米とぶつかります。

 

陸軍は北進論、海軍は南進論を唱えていましたが、日ソ中立条約により北方の脅威は取り除かれるので南方に進出することが可能になりました。

 

南方には日本にはない石油などの資源も豊富で、日本からすると宝の山に見えたんですね。

 

このあと南部仏印(今のベトナム南部)進駐を行い、実際に南方へ進出します。

 

しかし、このことがアメリカとの対立を決定的なものにし、太平洋戦争へと突入していくことになります。

 

②四国同盟は実現せず

「日独伊ソ四国同盟」というのは天敵であるドイツとソ連ががずっと仲良くいるという前提に考えられていました。

 

これによってアメリカを抑え、中国やアジア圏での日本の立場を強くしようとしたのですが、ドイツとソ連の間で戦争が始まってしまったのでその夢は叶いませんでした。

 

実は独ソ戦が始まったとき、条約を破棄してソ連へ攻め込もうと北進論を唱えた政治家がいました。

 

実はこの人物、日ソ中立条約を締結し四国同盟を模索した松岡洋祐なんです。

 

結局彼に同調する政治家はおらず、内閣の中でも孤立していきます。

 

③ソ連はモスクワ防衛に成功

ソ連からすると日本とドイツの挟撃を避け、2正面作戦をとらなくて済みます。

 

1939年にソ連はドイツとの間に「独ソ不可侵条約」を締結していますが、これは世界中から驚きの目で見られていました。

 

 

ドイツとソ連はお互いに天敵と見なしていたからです。

 

このとき日本の内閣も外交政策の見直しのため総辞職しています。それくらいショックな出来事だったんです。

 

しかし、ドイツとソ連の協調関係は長く続きませんでした。

 

19415月になるとドイツは条約を破ってソ連に侵攻。当初、準備不足のソ連軍はドイツ軍の勢いを止めることができませんでした。

 

12月にはモスクワの直前まで侵攻。これを守り切ったのが日本用に極東に配備していた部隊です。

 

東側の防衛力を減らしても大丈夫、という状況だったので戦力をモスクワ防衛に回すことができました。これはドイツにとっても痛手でナチスドイツ崩壊の始まりにもなりました。

 

日ソ中立条約の破棄とソ連の対日参戦

(ヤルタ会談 出典:Wikipedia)

①ヤルタ会談

19452月にソ連のヤルタで英米ソによる会談が持たれました。いわゆる「ヤルタ会談」です。

 

この際の取り決めの中に「ソ連の対日参戦」が入っていました。日本への本格侵攻となるとアメリカの損害も増えます。

 

当時、主要国で戦争状態になかったのは日本とソ連の間だけだったのですが、アメリカはソ連も対日戦に引きずり込むことで自分の損害を減らそうとしたのです。

 

この見返りにソ連が要求したのが千島列島でした。ここに現在まで解決していない北方領土問題が始まります。

 

また、これを受けてソ連は4月に日本に対して条約を延長しないことを通告します。

 

 

②日本は講和の斡旋をソ連に依頼

1945310日に東京大空襲がありました。このあと、日本政府も今後の選択肢の一つとして講和を模索し始めます。

 

交戦中の国同士では話し合いのための窓口も失われているため、どこかの国に仲介してもらわないといけません。

 

日本はそれをソ連にお願いします。

 

しかし、時期的にはもうヤルタ会談でドイツ降伏後のソ連の対日参戦が決まってるんですね。

 

日本はそれを知らない。ソ連は時間稼ぎのためのらりくらりとした対応を取る。時間だけがむなしく過ぎていきました。

 

③ソ連の対日参戦

ドイツ降伏の3カ月後の88日、ソ連は日ソ中立条約の破棄と日本に対しての宣戦を布告し、満州(今の中国東北部)や朝鮮半島北部、千島列島に侵攻しました。

 

ヤルタ会談でのアメリカとの約束を守ったわけです。領土も増やせますしね。

 

弱体化していた日本軍は各地で苦戦しますが、占守島など善戦したところもありました。

 

ソ連軍は北海道まで侵攻するつもりでしたが、各地の日本軍の決死の戦いでそれは阻止することができました。

 

こうしてソ連が条約を破棄して日本を攻撃することで日ソ中立条約は役目を終えました。

 

ソ連との戦いが始まって一週間後、日本はポツダム宣言の受諾する旨を通知し無条件降伏。第二次世界大戦が終結することになります。

 

日本が無条件降伏をした理由には広島・長崎への原爆投下もありますが、ソ連による日本への宣戦布告も大きな決め手の一つになりました。

 

 

まとめ

 日ソ中立条約は日本とソ連の間で結ばれた中立条約のこと。

 日本は北方を気にすることなく、東南アジアへ進出することができた。

 ソ連は極東の兵力を欧州側へ移動させることでモスクワ防衛に成功した。

 最後はソ連が条約を破棄し、ヤルタ会談の合意に基づき日本へ攻め込む。

 その結果もあり日本はポツダム宣言を受諾、第二次世界大戦が終結した。

関連キーワード