【ヤルタ会談とは】簡単にわかりやすく解説!!場所や内容・北方領土について

 

第二次世界大戦後の世界情勢は社会主義国であるソ連と資本主義国であるアメリカの2国が争っている冷戦という対立構造となっていました。

 

今回はそんな冷戦の元となった『ヤルタ会談』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

ヤルタ会談とは?

(ヤルタ会談 出典:Wikipedia

 

 

ヤルタ会談とは、1945年2月にソ連領内のクリミア半島のヤルタで開催された第二次世界大戦後の世界のことを決めた会議のことです。

 

この会議によって戦後のヨーロッパなどの国境が決められ、後に冷戦へとつながっていくことになりました。

 

ヤルタ会談の背景「第二次世界大戦末期の世界情勢」

 

 

1939年に始まった第二次世界大戦は最初の頃はドイツが破竹の勢いで進みフランスを降伏させイギリス以外のヨーロッパを手中に収めていました。

 

しかし、1941年から始まった独ソ戦が膠着し始めるとドイツは敗北する戦争がちらほら現れ始め、さらにスターリングラード包囲戦の敗北やアメリカの参戦によってドイツの劣勢が確定的となりました。

 

さらに極東では日本がアメリカにボコボコにされており、もう日本の降伏は時間の問題となっていました。

 

1945年に入るとアメリカやソ連はついにドイツに侵攻。ドイツの敗北が決定的となり、アメリカやソ連などはドイツ降伏後のヨーロッパについて会議が行われることになりました。

 

ヤルタ会談の目的と各国の思惑

(会談が開かれたリヴァディア宮殿 出典:Wikipedia

①ヤルタ会談の開催決定

ヤルタ会談では枢軸国として参加していたドイツと日本に対する戦後の処遇を決めることになりました。

 

そこでドイツが降伏しかけていた1945年2月にアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトイギリス首相チャーチル、ソ連のスターリンがヨーロッパのその後についての会議を行う必要がありました。

 

②各国の思惑

ヤルタ会談ではアメリカとイギリスとソ連が参加しましたが、それぞれの立場をまとめてみました。

各国の思惑

アメリカ・・・とりあえず日本を早く降伏させたい。そのためソ連に参戦させたい。

イギリス・・・スターリン嫌い、とにかくソ連を排除したい。フランスの権利を増やしてなんとか面目を保ち、ソ連と対抗したい。

ソ連・・・共産主義国を増やしてソ連の権力を増やしたい。

 

こんな感じで各国それぞれの思惑がありました。

 

ちなみにまだこの頃はアメリカとソ連との仲は良好で、冷戦へと突入していくのはトルーマンが大統領になってからでした。

 

ヤルタ会談の内容

①ポーランド問題

ヤルタ会談でのメインの内容はこれとも言ってもいいほどポーランドは重要な問題でした。

 

1939年にポーランドはドイツとソ連がそれぞれ侵攻して東部はソ連、西部はドイツによって占領されてしまいましたが、ソ連は1944年にポーランド東部にポーランド国民解放委員会を設立してポーランドの統治を行わせようとします。

 

しかし、その一方でイギリスのロンドンにはポーランド亡命政府というポーランド国民解放委員会とは違う政府があり、ヤルタ会談ではこの亡命政府か解放委員会のどっちが正当な政府なのかということでイギリスとソ連の間で対立が起きてしまいます。

 

結局、ポーランドはアメリカによってポーランド国民の投票によって政府を決めることに決定します。

 

②ドイツ問題

ヤルタ会談ではドイツの戦後についても話し合われました。

 

このヤルタ会談によってドイツはアメリカ・イギリス・ソ連・フランスの4ヶ国によって占領されることが決められ、またオーデル川とナイセ川以東のドイツ領土がポーランドの領土となることが決められました。

 

ドイツ(プロイセン)というのは元々このオーデル川以東から誕生した国であり、またこの領土は元々のドイツの領土の25%を占めていたためドイツにとってはかなりのダメージを受ける結果となりました。

 

さらにポーランド東部がそのままソ連の領土となることも決定され、ポーランドは国土が西にずれることになりました。

 

③極東問題

ヤルタ会談では日本の戦後の処遇とソ連の対日参戦が決められました。

 

アメリカはこの頃日本に対して本土空襲を行なっており、降伏する一方手前まで追い詰めていましたが、とどめをさすにはどうしてもソ連の協力が必要とルーズベルト大統領は思っていました。

 

しかし、当時ソ連は日本との間に日ソ不可侵条約を結んでおり日本に対して宣戦布告ができない状態です。

 

そこでアメリカはかつてからソ連が望んでいた満州国の利権、樺太、千島列島の領有化を認め、ソ連がドイツを降伏させてから90日後に日本に宣戦布告することが決められました。

 

また、日本の植民地であった台湾は中華民国に、朝鮮は北部がソ連領、南部がアメリカ領となることが決められ、これがのちに朝鮮戦争につながっていきます。

 

④国際連合設立問題

ヤルタ会談では戦争を止めれなかった国際連盟に変わる新たな国際組織を作ることが決められ、国際連合の新たな内容の一つである常任理事国についてや拒否権などが制定されました。

 

国際連合の常任理事国は連合国として活躍したアメリカ・ソ連・イギリス・中華民国・フランスという風に決められ、ヤルタ会談後に行われたサンフランシスコ会議によって可決。国際連合は51ヶ国によって10月24日に成立しました。

 

ヤルタ会談のその後

(冷戦中のアメリカ核実験の様子 出典:Wikipedia)

①冷戦の突入 ヤルタ体制の確立

ヤルタ会談によって戦後の世界はアメリカ・ソ連・イギリスを中心とした連合国が牛耳って行くことが決まりました。

 

しかし、ルーズベルト大統領がヤルタ会談の直後に死去。副大統領であったトルーマンが大統領になってから事態が急変していきます。

 

トルーマンはヤルタ会談での急速な勢力拡大に危機感を抱き始めソ連のことをだんだんと敵対視していきます。そしてドイツ降伏後、ヤルタ会談の取り決め通りドイツを占領すると、東西ドイツの国境を境に西側諸国と東側諸国に分断されて行くことになります。

 

このヨーロッパの状態のことをヤルタ体制といったりとしますが、このヤルタ体制がのちに冷戦という形で現れていき、チャーチルがこのことを『鉄のカーテン』と言うことになっていくのです。

 

②北方領土問題

ヤルタ会談によって日本の降伏後千島列島はソ連の領土となることになりましたが、これが現在でも問題となっている北方領土問題へとつながっていきます。

 

そもそも北方領土とは北海道の北側にありロシアに実効支配されている択捉島・国後島・歯舞諸島・色丹島の4つの島の総称のことです。

 

この北方領土を支配しているロシアが言うには「北方領土は千島列島に含まれているからロシアのものだ。」と言っています。

 

が、しかし最初に千島列島のことを決めた日露和親条約には北方領土を日本の領土にすることが決められており、千島列島には含んでいません。

 

 

これが非常に北方領土問題をややこしくしており、今でもヤルタ会談での千島列島には北方領土が含まれているのかがわかっていません。

 

まとめ

・ヤルタ会談とは1945年に開催された枢軸国の敗戦後の世界の世界について話し合われた会議のこと。

・このヤルタ会談の主な議題はポーランドについて。

・このヤルタ会談がのちに起こる冷戦へとつながっていった。

・極東問題においてソ連は樺太と千島列島を占領することになったが、これが今の北方領土問題につながっていった。