【謝恩使と慶賀使の違い】簡単にわかりやすく解説!!派遣理由や特徴について

 

江戸時代には、参勤交代というものがあったのを覚えていますか?

 

しかし参勤交代とは別に、当時の琉球王国からの使節団がたくさん派遣されていて、何が何だかわからなくなってきてしまいがちでしたよね。

 

すごくよくわかります。

 

今回は、琉球王国から派遣されていた使節団の中でも、『謝恩使(しゃおんし)と慶賀使(けいがし)について』、派遣理由や特徴など簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。

 

琉球王国について知ることが近道!

 

謝恩使と慶賀使の違いについて言及する前に、派遣の経緯を知ることが近道であり、重要です。

 

沖縄はかつて琉球王国と言い、琉球諸島の中山の王尚巴志(しょうはし)1429年に琉球諸島を統一し、できたのが琉球王国でした。

 

しかし、長く続いていた王国時代は薩摩藩の侵略で終焉を迎えることとなります。

 

1609に薩摩藩の島津家久が琉球王国に攻め入ったことで、琉球王国は薩摩藩に征服されてしまうのでした。

 

これを、琉球征服と言います。

 

しかもその後、中国の明(清)とも冊封体制にあった琉球王国は、明と日本の両方に属することになったという、大変な歴史を持っているんです。

 

その為2か国の支配下になった琉球王国は、双方に数多くの使節を派遣することになったと言う訳です。

 

通称:江戸上り

日本に派遣された琉球王国からの使節団が、江戸へ向かうことを、江戸上りといいました。

 

この江戸上りを行っていたのが、謝恩使と慶賀使です!

 

この江戸上りですが、薩摩藩が琉球王国を侵略した1634年から幕末の1850年にかけての約200年間に、合計18回も行われているんです!

 

 

謝恩使と慶賀使の違い

 

謝恩使と慶賀使には、それぞれどのような違いがあるのでしょうか。

 

下記の通り簡単にまとめてみましたので、ご覧ください。

 

謝恩使と慶賀使の違い

 

✔ 派遣されるきっかけが違う

謝恩使・・・琉球国王が変わるごとに将軍に遣わされた

慶賀使・・・江戸幕府の将軍の代替わりごとに将軍の元へ遣わされた

 

✔ 派遣されていた理由が違う

謝恩使・・・将軍のお陰で琉球国王になれたことを感謝するために参上する

慶賀使・・・将軍就任のお祝いに参上する

 

✔ 通常は同時に派遣されない

謝恩使・・・単独派遣は1644にスタート

慶賀使・・・単独派遣1634にスタート

 

 

以上のように、謝恩使と慶賀使はこれだけしか違いが無いのです。

 

謝恩使と慶賀使の共通点

 

琉球王国の歴史や使節団の派遣・違いについても何となくつかんだところで、日本に送られていた2つの使節である謝恩使と慶賀使について、簡単にわかりやすく解説していきたいと思います。

 

謝恩使と慶賀使は、時代によって多少変化があるものの、両方ともやることや構成員については、ほとんど変更がなかったとされています。

 

〇構成員は謝恩使も慶賀使も同じ

〇旅程は1年がかりで、ルートも同じ

〇両方の使節にはパフォーマンス要員もいる

 

構成員は謝恩使も慶賀使も同じ

構成員は、王子が正使、副使に親方(士族のトップ)、讃議官、楽正、儀衛正、掌翰使、楽師、楽童子などで構成されていて、規模はおよそ100名前後でした。

 

さらに道中では、薩摩藩の護衛や藩主、役人も合流し、その規模は500人にのぼったそうです。

 

後述しますが、謝恩使と慶賀使が同時に派遣されていた時期もあったというから、その規模は大名行列や参勤交代に匹敵するといえます。

 

②謝恩使と慶賀使の旅程は同じ

謝恩使も慶賀使も、琉球王国から江戸幕府まで往復1年かけて行われてきました。

 

気候も全く違う琉球と江戸では、当時の謝恩使も慶賀使の人たちも大変苦労されたようです。

 

③謝恩使も慶賀使にもパフォーマンス要員がいる

謝恩使も慶賀使にも、琉球舞踊や琉球音楽を演奏するパフォーマンス要員がいました。

 

道中では、この様な人物達が江戸上りのルートでパフォーマンスを繰り広げていて、これらが後に、農村芸能に影響を与えたりしたとされています。

 

また、使節団にいたパフォーマンス要員の人たちは、将軍や幕閣の前でも琉球の文化を披露していたそうです。

  

それでは詳しく見ていきましょう。

 

謝恩使について詳しく解説!

 

では最初に、謝恩使について詳しく見てみましょう。

 

①琉球国王が変更したら遣わされていた

謝恩使は、琉球王国の国王が変わるごとに江戸に派遣されていた使節団のことを指します。

 

琉球王国の国王が新しく即位した場合、その都度、使節団を謝恩使として派遣しいたということになります。

 

最初の謝恩使は、1644に派遣されています。

 

②謝恩とは、将軍に感謝をするための意味だった

謝恩使の謝恩とは、誰に感謝しているのでしょうか。

 

それは、江戸幕府の将軍に対して感謝の意を示しているんです。

 

謝恩使の簡単な覚え方にも有効ですが、謝恩使の遣わされた理由は、「将軍様のおかげで琉球国王になれました。ありがとうございます。」という意味があるのです。

 

慶賀使について詳しく解説!

 

続いて慶賀使について詳しく見ていきましょう。

 

①将軍の代替わりごとに派遣されていた

慶賀使と言うのは、江戸幕府の将軍が変わるごとに、江戸に遣わされた使節団のことを指します。

 

つまり、江戸幕府の将軍が交代するごとに、わざわざ琉球から江戸幕府まで赴くことが義務付けられていたと言ことになります。

 

最初の慶賀使は、1634に派遣されています。

 

②慶賀というのはお祝いの意味

①の通り、江戸幕府の将軍が変わるごとに派遣されていた慶賀使ですが、「慶賀」と付くだけあって、お祝いをするために派遣されています。

 

簡単な覚え方としては、「将軍のご就任、おめでとうございます。お祝いするために参上しました。」と言うために派遣された使節団、と言う訳です。

 

謝恩使と慶賀使が同時に派遣されることもある

 

実は謝恩使と慶賀使が同時に派遣されている時期が過去に3回もあったのです。

  • 1634年の将軍・徳川家光の時代(この回は京都にのみ滞在)
  • 1710年の将軍・徳川家宣の時代
  • 1714年の将軍・徳川家継の時代

    徳川家光の間は謝恩使と慶賀使はほぼ交互に派遣されていますが、1710年と1714年の間は4年しかありません。

     

    往復で1年もかかるとなると、琉球王朝の負担は相当なものだったことが伺えます。

     

    まとめ

     謝恩使と慶賀使は琉球王国が薩摩藩の侵略にあったためにできた使節団のこと。

     謝恩使と慶賀使は、約200年の間に合計18回派遣されていた。

     構成員やルートも同じで、両方とも1年かけて使節団を送っていた。

     謝恩使と慶賀使にはパフォーマンス要員がいる。

     派遣されるきっかけが違い、謝恩使は琉球国王が変わるごとに将軍に遣わされたが、慶賀使は江戸幕府の将軍の代替わりごとに将軍の元へ遣わされた。

     派遣されていた理由が違い、謝恩使は将軍のお陰で琉球国王になれたことを感謝するために参上し、慶賀使は将軍就任のお祝いに参上していた。

     最初の謝恩使は1644年に単独派遣され、慶賀使の単語苦派遣は1634年。

     謝恩使と慶賀使は、同時に派遣されていたこともあった。