【大正政変とは】わかりやすく解説!!なぜ起こった?背景や経過・その後など

 

大正時代の社会現象として、大正デモクラシーという言葉がよく知られています。

 

日露戦争後にさまざまな分野で広まった民主主義的・自由主義的な風潮を指す言葉です。

 

こうした風潮は単なる一時期の流行に終わったわけではなく、当時の内閣さえもひっくり返すほどの力をもっていました。その出来事こそが「大正政変」と呼ばれるものです。

 

今回は、そんな『大正政変(たいしょうせいへん)』について簡単にわかりやすく解説していきます。

 

大正政変とは?

(桂太郎 出典:Wikipedia

 

 

大正政変とは、19132月に第一次憲政擁護運動によって第三次桂太郎内閣が総辞職に追い込まれた事件のことです。

 

事件の発端は、前年12月に二個師団増設が拒否されたことを受け、陸相が辞任。その後任を陸軍が出さなかったことで、第二次西園寺公望内閣が退陣したことにさかのぼります。

 

後継の第三次桂内閣が強硬な議会運営を行ったため、世間は陸軍や藩閥の横暴だと受け止め、政党や新聞社が中心となり、多数の一般市民が反対運動を行いました。

 

これが大正デモクラシーの時代を切り開きました。

 

大正政変が起こった背景

明治時代末から大正時代にかけて、政治家の桂太郎西園寺公望が交互に内閣をつくる時期がありました。

 

 

(西園寺公望 出典:Wikipedia

 

 

桂は藩閥勢力の代表格だった山県有朋の後継者であり、西園寺は伊藤博文が結成した立憲政友会の総裁でした。

 

そのため、これは藩閥政治と政党政治のせめぎ合いと見ることができます。

 

この時期を桂と西園寺の名前から一文字ずつとって「桂園時代」と呼びます。

 

 

①第一次桂内閣

第一次桂内閣の最大の課題は、極東進出を企てているロシアの脅威を取り除くことでした。

 

特に中国東北部の満州の権益を守ることが重要視されました。

 

当時、日清戦争後に締結された下関条約に対する三国干渉によって、ロシアは遼東半島を租借地とし、満州に鉄道敷設権を得ていました。

 

 

シベリア鉄道を満州までつなげて、一気に極東へ進出しようとする意図は、火を見るよりも明らかでした。

 

このようなロシアの動きに対応するため、1902年に日本はイギリスと日英同盟を結び、両国の軍事力を背景にして、ロシアの進出を牽制しました。

 

 

その後、ロシアと外交交渉を続けつつも、来たるロシアとの戦争に備えて、軍備の拡張を進めていました。

 

そして1904日露戦争が勃発。桂内閣はなんとか各政党の支持を得て、戦争中の帝国議会を乗り切ります。

 

その後、日本の国力から見て長期戦はできないと判断し、アメリカに講和の仲介をするように働きかけます。

 

これにより、19059月にロシアとの間でポーツマス条約が締結され、日露戦争は終わりました。

 

 

ところが、この条約の内容に対する不満が国内で急激に高まりました。

 

最大の理由は、日露戦争を通して多額の軍事費が使われたにもかかわらず、ポーツマス条約ではロシアから賠償金を取れなかったことにあります。

 

不満をもった市民が日比谷公園に集まり、講和反対の大会を開いた後、東京市内の警察署や交番を襲撃する事件(日比谷焼打事件)が起きてしまうほどでした。

 

この事件がきっかけとなり、桂内閣は戦争処理が済んだ時点で退陣することになりました。

 

②第一次西園寺内閣

第一次西園寺内閣は、前・第一次桂内閣の計画を受け継ぎ、ポーツマス条約でロシアから譲渡された長春・旅順間の鉄道を経営するため、半官半民の南満州鉄道株式会社を設立しました。

 

また、第三次日韓協約を結び、朝鮮の内政権も獲得しています。

 

しかし、満州に派遣した軍隊をなかなか撤退させなかったため、諸外国から非難を受けることになりました。これが一因となって、外務大臣が辞職してしまいます。

 

さらに、予算編成をめぐって内閣で対立が起こり、大蔵大臣と逓信大臣も辞任。これによって、内閣は不安定な状態になります。

 

その一方で、交通機関の整備や産業の振興を通して輸出を伸ばそうとした政策は、1907年秋に起こった恐慌によって失敗してしまいます。

 

この責任をとって、西園寺内閣は総辞職しました。

 

③第二次桂内閣

第一次西園寺内閣の後を継いだ第二次桂内閣は、まず財政再建に当たりますが、これといった成果を出すことはできませんでした。

 

また、国内では日露戦争の負担から地方社会が疲弊し、社会主義個人主義が広まっていたため、桂内閣は1908戊申詔書を発布し、皇室を中心に国民が一体となるように求める運動を起こしました。

 

 

しかし、19105月に幸徳秋水ら社会主義者や無政府主義者を検挙して、翌年に死刑に処するという大逆事件が起こりました。

 

また、同年8月には韓国併合を行い、帝国主義政策を推し進めました。

 

 

こうした強硬策には反対意見が強く、そのうち内閣の中でも「総辞職すべきだ」という意見が起こるようになります。これにより、桂内閣は総辞職に追い込まれました。

 

④第二次西園寺内閣

第二次桂内閣が総辞職した後、第二次西園寺内閣が成立しました。

 

この内閣は、帝国主義政策を修正する方針をとったため、国民の支持を受けました。

 

実際、191110月に清(中国)で辛亥革命が起きても、少なくとも表面上は不干渉の立場をとりました。

 

ところが、政府が海軍を充実させる政策をとったのに反発して、陸軍は辛亥革命など流動化する情勢に対応するという名目で、二個師団増設案を強硬に主張しました。

 

西園寺内閣がこの案を拒否すると、上原勇作陸相が辞職し、陸軍はその後任を出さないという事態に発展しました。

 

陸軍大臣がいないと内閣が成立しないため、第二次西園寺内閣は退陣することになりました。

 

大正政変の発生とその経過

 

第二次西園寺内閣の退陣後、元老会議では後任の首相選びが難航します。

 

結局、大正天皇が即位してからは宮中で内大臣を務めていた桂太郎が政界に復帰し、再び内閣をつくることになりました。これが第三次桂内閣です。

 

しかし、前内閣が陸軍によって退陣に追い込まれたことや、桂が天皇に詔勅を出させて組閣を断行したことは、陸軍や藩閥の横暴であると世間からは受け止められました。

 

これにより、第一次憲政擁護運動(護憲運動)が巻き起こりました。

 

第一次憲政擁護運動では、まず立憲政友会が各地の支部で、師団増設や藩閥政治に反対する決議を行いました。

 

また、東京の新聞記者や弁護士らが憲政作振会を結成したり、慶應義塾出身者の団体である交詢社が憲政擁護会を発足させたりしたほか、全国各地で多くの演説会が開かれました。

 

これに対して、桂首相は15日間議会を停会にする一方で、新党を結成して、政党勢力の分断を図ろうとしました。

 

しかし、このことが政友会と国民党の態度を硬化させることになりました。こうして世間でも大きな反発が起こり、憲政擁護大会に1万人規模の参加者が集まりました。

 

こうした運動の高まりを受けて、停会明けに政友会と国民党が内閣不信任案を提出しました。

 

これに対して、桂首相は再び5日間停会し、天皇に詔勅を出させて不信任案を撤回させようとしました。もし不信任案を撤回しないようであれば、議会を解散させるつもりでした。

 

しかし、この行動に激高した数万の群衆が1913210日に帝国議会を取り囲んだため、もはや議会を解散すると暴動に発展する状態だと衆議院議長から忠告を受けた桂首相は、ついに内閣総辞職を決意し、翌日総辞職しました。

 

この一連の出来事が「大正政変」と呼ばれています。

 

大正政変のその後

 

大正政変を引き起こした第一次憲政擁護運動では、表立って活動していたのは政党や新聞社でしたが、全国各地で開かれた大会や演説会には多数の一般市民が参加しました。

 

そして、そうした一般市民の勢いに突き上げられることで、政党や新聞社もまたさらに活発に活動するようになっていきました。

 

その意味で、このような一般市民の力が大正デモクラシーの時代を切り開いたと言うことができます。

 

 

大正政変以後、都市中間層が増えていく中で、デモクラシー運動の根は広がり、一般市民の間でも政治結社が作られるようになっていきました。

 

また、当時最大の発行部数を誇っていた『大阪朝日新聞』や知識人に人気のあった『中央公論』などが、こうしたデモクラシーの風潮をさらに広めていきました。

 

まとめ

 大正政変とは、1913年2月に第一次憲政擁護運動によって第三次桂太郎内閣が総辞職に追い込まれた事件のこと。

 事件の発端は、前年12月に二個師団増設が拒否されたことを受け、陸相が辞任し、その後任を陸軍が出さなかったことで、第二次西園寺公望内閣が退陣したことにさかのぼる。

 後継の第三次桂内閣が強硬な議会運営を行ったため、世間は陸軍や藩閥の横暴だと受け止め、政党や新聞社が中心となり、多数の一般市民が反対運動を行った。

 こうした一般市民の活動が、大正デモクラシーの時代を切り開いた。