みなさんは、商場知行制(あきないばちぎょうせい)と場所請負制という言葉をご存知でしょうか?

 

おそらく、大半の方はなじみがなく、日本史を勉強している方ならば、名前を聞いたことがある方もいると思います。

 

どちらも、近世以降、蝦夷地(現在の北海道)を支配する松前藩などが、その支配のために設けた、蝦夷地の先住民族であるアイヌの人々との交易に関する制度を言います。

 

言葉はわかっていても、両制度の内容や時期などを正確に理解されていない方もいるかと思います。

 

そこで今回は、商場知行制と場所請負制の違い、それぞれの内容や時期について簡単にわかりやすく解説したいと思います。

 

商場知行制と場所請負制の違い 

(アイヌ民族 出典:Wikipedia)

 

 

「商場知行制」「場所請負制」それぞれの意味は以下のようになります。

 

〇商場知行制

近世・江戸時代において、蝦夷地を支配する松前藩にて、家臣に対し、蝦夷地の特定の区域を「商場」としてアイヌの人々との交易権を知行として与えた制度のこと。

 

〇場所請負制

18世紀アイヌ交易の複雑化に伴い、知行主たる松前藩の家臣が、和人商人に場所請負人としてアイヌとの交易を代行させ、商人から運上金を得る制度のこと。

 

ここからはそれぞれの内容について詳しく解説していきます。

 

商場知行制についてわかりやすく解説!

商場知行制とは?

近世・江戸時代になるとこれまでの貫高制とは違い、領地(藩)内の米の生産量(石高)をもとに諸藩の税や諸役、軍事負担などが決定されました。

 

江戸時代では石高をもとに土地の大小や年貢の量だけでなく、身分秩序などが決められており、これを石高制と呼んでいます。

 

 

また、江戸時代では通常、大名の知行権は、石高に裏付けられた土地の支配権を意味しました。

 

大名は家臣に対し、禄として与える知行を所領などの形で与え支配させています、これを地方知行制と呼びます。

 

しかしながら、蝦夷地を支配する松前藩においては米の収穫がなされない土地が大半を占めており、家臣に対し、蝦夷地の特定の区域を「商場」として、アイヌの人々との交易権を知行として与えていました。

 

アイヌの人々との交易では、鉄製品や漆器、米、木綿などが、蝦夷地の産物である獣皮・鮭・鷹羽・昆布などと交易されていました。

 

商場を与えられた家臣たちは、アイヌの人々との交易で得た蝦夷地の産物を松前城下の商人へ売り、その売却収入を得ていました。

 

このように商場知行制は、松前藩特有の領内事情のため、地方知行の例外として幕府より認められた制度でした。

 

アイヌの人々の不満「シャクシャインの戦い(1669年)」

松前藩による蝦夷地支配が始まる前、蝦夷地のアイヌは松前氏以外とも交易が行われていましたが、江戸時代になるとアイヌの人々との交易権は松前氏に独占されました。

 

さらに、商場知行制の下で、アイヌの人々の交易相手は各商場の知行主たる松前家臣に限定され、交易レートも松前藩の財政難等を背景に、次第にアイヌの人々に不利なものとなるなど、アイヌの人々の不満は爆発寸前となります。

 

こうした中、アイヌのシャクシャインは蝦夷地各地のアイヌの人々に対し、松前藩への蜂起を呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応しました。

 

そして、1669年、シャクシャインたちアイヌの人々は和人に対し一斉蜂起し、交易商船の襲撃などを行っています(シャクシャインの戦い)。

 

 

結果的には、この反乱は松前藩によって鎮圧されました。

 

乱後、松前藩は蝦夷地におけるアイヌ交易の絶対的な主導権を握り、アイヌの人々に対して七ヵ条の起請文によって服従を誓わせました。

 

これによって、松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された一方、アイヌの人々にとって不利な和人製品との交易レートについては緩和されるなど、融和策も行われています。

 

場所請負制についてわかりやすく解説!

(アイヌ絵 出典:Wikipedia

場所請負制とは?

場所請負制とは、商場知行制において、知行主たる松前藩の家臣が蝦夷地の商場に繰り出し、アイヌの人々との交易を行ったのに対し、18世紀になると松前藩の家臣がアイヌの人々との交易を和人商人に場所請負人として代行させ、一定の運上金を得る仕組みです。

 

こうした仕組みができた背景には、アイヌの人々との交易が複雑化し、武士の手に負えなくなったなどの事情があります。

 

運上屋の設置

運上屋とは、和人商人の場所請負人によって、蝦夷地の場所ごとに設けられた「交易の拠点」を言います。

 

運上屋はやがて漁場の経営も取り扱うようになり、宿場や松前藩の出先機関としても機能するようになっていきます。

 

アイヌの人々の蜂起「クナシリ・メナシの戦い(1789年)」

1789年、クナシリの場所請負人である飛騨屋との交易や労働環境に不満を持った、クナシリのアイヌの人々が蜂起し、商人や商船を襲い和人を殺害しました。

 

また、メナシのアイヌの人々もこれに応じ、和人商人を襲いました(クナシリ・メナシの戦い)。

 

これに対し、松前藩が鎮圧に乗り出しアイヌの人々も説得に当たった結果、蜂起したアイヌの者は投降し、蜂起の中心人物であるアイヌの者は処刑されました。

 

松前藩は鎮圧後、飛騨屋の責任を問い、飛騨屋から場所請負人の権利をはく奪しました。

 

また、幕府は、アイヌの人々の蜂起の原因は経済的に苦しい状況にあるためと理解し、後に、場所請負制は幕府の直轄となりました。

 

これにより、アイヌの人々の経済的な環境はある程度改善されました。

 

しかし、これはアイヌの人々が、幕府の経済体制に完全に組み込まれたことも意味しました。

 

④場所請負制度の終わり

場所請負制は明治29月に廃止が明示されましたが、場所請負人らの反対もあり、同年10月漁場持と名称を変え、存続することになりました。

 

しかし、結果的に漁場持は、明治99月に廃止されています。

 

まとめ

 商場知行制とは、近世・江戸時代、松前藩が蝦夷地の一定の区域(商場)におけるアイヌの人々との交易権を家臣に知行として与えた制度のこと。

 18世紀になると、アイヌとの交易が複雑化していったため、武士の手には負えなくなり、松前藩の家臣がアイヌの人々との交易を和人商人に場所請負人として代行させ、一定の運上金を得る仕組みである、「場所請負制」に移行した。

 商場知行制では、次第にアイヌの人々に不利な交易レートを強いられるようになり、1669年、不満を持ったアイヌの人々が蜂起した(シャクシャインの戦い)。

 場所請負制では、運上屋という交易の拠点が設置され、運上屋では漁場経営も取り扱うようになった。

 1789年、場所請負人の和人商人に対するアイヌの人々の反乱(クナシリ・メナシの戦い)が発生し、松前藩により鎮圧され、反乱の原因がアイヌの経済的な苦境などにあることから、場所請負制は後に幕府の直轄となった。

 場所請負制は、明治2年10月 漁場持に名称が変わり存続することとなったが、明治9年9月に廃止されている。




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