【桂園時代とは】わかりやすく解説!!なぜ交互に行われた?詳しい流れ&特徴など

 

明治の頃、政治は一部の人々だけが決めていました。

 

しかし、国民は『それはおかしいだろ!』と思って自由民権運動を起こします。

 

そして大正時代に入ると明治維新を成し遂げた偉人たちがどんどん亡くなり新たな時代を迎えます。

 

今回はその新たな時代を迎えるちょうど間の時代である『桂園時代』についてわかりやすく解説していきます。

 

桂園時代とは?

(立憲政友会本部 出典:Wikipedia

 

 

桂園時代とは、1901年(明治34年)から1913年(大正2年)まで続いた桂太郎と西園寺公望の2人が交互に首相をやっていた時代のことです。

 

桂園時代の桂園は桂太郎の『桂』と西園寺公望の『園』の文字をとったものです。

 

桂太郎は明治維新の立役者の人だけが政治をする藩閥と呼ばれるグループの一人で、西園寺公望は立憲政友会という政党のリーダーをしている人でした。

 

この時代は戦前の内閣の中でも一番安定していた時代ともいわれています。

 

桂園時代が始まるまでの経緯

第一次桂内閣と日比谷焼き討ち事件

桂太郎は日本が日露戦争が起きる直前に伊藤博文から首相のバトンを渡されて首相となりました。

 

日本は日露戦争に勝利して、ついに明治維新からの目標であったイギリスとフランスと同じ立場の国である列強になりました。

 

 

しかし、日本は日露戦争で日本の経済が崩壊するレベルのお金を使ってしまいます。

 

さらに日本はロシアから賠償金がもらえませんでした。

 

そのせいで戦争に勝つために耐えて来た日本国民は大ブーイング。

 

民衆は日比谷公園周辺の交番などを燃やすなどして暴れまくりました。この暴動を日比谷焼き討ち事件といいます。

 

(日比谷焼き討ち事件 焼かれた施設 出典:Wikipedia

 

これに困ったのが桂太郎内閣。このままでは国民が大暴れして最悪の場合国が内乱になるかもしれません。

 

そこで桂太郎はこの時特に勢いがある政党のリーダーの西園寺公望に『この暴動が収まったら首相をあんたに譲るから、暴動を収めてくれ!頼む!』といいます。

 

西園寺は民衆を説得してなんとか暴動を収めることに成功して、約束通り西園寺が首相となりました。

 

その後、桂太郎と西園寺公望は交互に首相をやっていくことになります。

 

桂太郎内閣と西園寺内閣の特徴

①桂内閣の特徴

(桂太郎 出典:Wikipedia

 

 

桂太郎内閣の特徴はとにかく藩閥の影響が強かったことです。

 

桂太郎は長州藩の出身の軍人さんです。そのため長州藩の人の影響を受けやすかったのです。

 

特に伊藤博文と並んで影響力があった山縣有朋の影響はすごいもので、首相になった時も山縣有朋のの意見は無視することができませんでした。

 

さらに、タチの悪いことにこの山縣有朋 ものすごく政党が大嫌い。そのため桂太郎内閣の時代はあまり政党の意見は聞きませんでした。

 

また、桂太郎が軍人さんということもあって軍に対してとにかく優遇して外国に立ち向かおうとしていました。

 

さらに民衆ではなく国が得するような政策をとっていました。

 

②西園寺内閣の特徴

(西園寺公望 出典:Wikipedia

 

 

西園寺公望内閣の特徴は政党による政治によって国民を優遇する政治をしたことです。

 

西園寺公望は公家の中でも名門な西園寺家に生まれながら、若い頃にパリに留学して共和制の平等で自由な政治に興味を持ち、そこで勉強しました。

 

そのため西園寺公望が『国民全体で日本の政治をしていこう!』みたいな考え方でした。

 

西園寺公望は軍による外交ではなくなるべく交渉によってなんとかしようとしていました。

 

そのため西園寺公望内閣はちょっと前に話題になったリベラルな政治を目指していたと言えます。

 

第二次桂内閣と第二次西園寺内閣と山縣有朋

第二次桂内閣となった時、桂太郎は西園寺が率いている政友会の意見も取り入れて仲良くやっていこうという情意投合という状態とします。

 

そしてまた桂内閣の次は西園寺公望がやるということを決めました。

 

これで政党と軍が仲良くなると思いきやここで大事件が…なんと伊藤博文が暗殺されてしまったのです。

 

伊藤博文が暗殺されたことによって影響力を持っている人が山縣有朋ただ一人だけになってしまいます。

 

そしてこれから山縣有朋の一人勝ち状態に突入していきます。

 

そんな一人勝ち状態を象徴しているのが、二個師団増設問題と呼ばれる事件です。

 

これは辛亥革命によってアジアの情勢が変わっていることを受けて、陸軍が2個師団(2万人)の増やしてくれと圧力をかけた事件です。

 

 

西園寺内閣は民衆が反対していることや財政難を理由に拒否しますが、山縣有朋はとある切り札を出しました。

 

軍部大臣現役武官制の導入

 

山縣有朋の切り札とは軍部大臣現役武官制という制度です。

 

 

長ったらしい名前ですがわかりやすくすると『陸軍大臣と海軍大臣は現役の軍人さんでなければいけないよ』ということです。

 

これのどこが切り札かというと、内閣は一人の大臣がいなくなった時点で内閣を辞めなければならないというルールがあったからです。

 

つまり『軍が不満持っているから俺陸軍大臣辞めるわ』といったらその時点で内閣は総辞職となってしまうのです。

 

第二次西園寺内閣はこれが原因で総辞職しました。

 

大正政変による桂園時代の終わり

 

 

第二次西園寺内閣が総辞職したため、また桂太郎が首相となりました。

 

しかし、民衆は二個師団増設問題に納得しませんでした。

 

さらに民衆の間ではこのまま桂が内閣をやっていたら憲法が守られないとして、のちに憲政の神様と呼ばれる尾崎行雄が憲政擁護運動を始めます。

 

この運動はたちまち全国に広がって各地で藩閥政治打倒の動きが強くなっていきました。

 

そして、ついに桂内閣は国会で内閣不信任案が出されてしまいます。

 

桂は慌てて議会を解散させますがもう遅かった。民衆は日比谷焼き打ち事件みたいに各地の交番を襲撃して国内は大混乱となります。

 

そして、第三次桂内閣は50日で総辞職します。この一連の混乱を大正政変と呼びます。

 

 

次の首相は西園寺公望ではなく薩摩出身の海軍軍人である山本権兵衛が就任。10年続いた桂園時代は終わりを迎えました。

 

その後藩閥政治は終わりを迎えて国民による政治を目指す大正デモクラシーの時代へと移り変わっていくことになるのです。

 

 

まとめ

 桂園時代は桂太郎と西園寺公望が交互に首相を務めた10年間のこと

 桂太郎が藩閥の影響を受けて西園寺公望は政党政治を行った

 最後は大正政変によって体制は終わりを迎えて大正デモクラシーへと移り変わっていった。

 

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