【北伐とは】簡単にわかりやすく解説!!意味や目的・経過・結果について

 

辛亥革命の指導者孫文は「革命いまだ成らず」の言葉を残してこの世を去りました。

 

混乱した中国統一を目指すのが「北伐(ほくばつ)」。といっても、これを理解するためには近代中国の歴史にちょっとだけ触れなければなりません。

 

今回は、この北伐がどうして行われたのか?そもそも北伐とは何なのか?背景や経過・結果を簡単にわかりやすく解説していきます。

 

北伐とは?

(北伐時代の国民革命軍兵士 出典:Wikipedia

 

 

北伐とは、1926~1928年に蒋介石率いる中国の国民革命軍が、北方の軍閥を攻め滅ぼして中国を統一する動きのことをいいます。

 

(※軍閥・・・中華民国各地を軍事力で支配する勢力のこと)

 

北伐が行われた背景や目的

(清国内閣総理大臣時代の袁世凱)

①辛亥革命後の混乱(軍閥の台頭)

辛亥革命の直後、清の宣統帝を退位させた袁世凱が独裁的な力を持ちました。

 

 

袁世凱は自ら皇帝になろうとしますが、周囲の反発によって皇帝即位をあきらめます。

 

失意の袁世凱が死んだあとは、彼の後継者の座をめぐって各地で軍人たちが争い始めます。

 

その結果、こうした軍人たちが各地域を支配するようになります(これを軍閥と呼ぶ)。

 

馮国璋(ふうこくしょう)・段祺瑞・張作霖らが代表的な軍閥です。

 

②外国勢力の動き

辛亥革命後も日本や欧米諸国は軍閥を通じて中国に手を出そうとしました。

 

馮国璋は欧米の支援を、段祺瑞や張作霖は日本の支援を受けました。

 

とくに段祺瑞は日本政府から多額の借款(借金のこと)をしていました(西原借款)。

 

 

また、満州を支配していた張作霖も日本の支援を受けます。のちに、張作霖は北京も支配下に置きました。

 

③孫文と蒋介石

孫文は袁世凱に敗れた後、中国国民党を結成します。

 

その後、孫文は共産党とも第一次国共合作によって手を結び革命の実現をしましたが、1925年に死去します。

 

そして国民党を受け継いだのが蒋介石でした。

 

 

(蒋介石 出典:Wikipedia

 

 

こうして中国南部の広州を根拠地にした国民党軍は準備を整え、1926年に北伐を開始しました。

 

北伐の経過

(国民党の北伐 出典:Wikipedia)

①蒋介石の快進撃と共産党による上海解放

広州を出発した蒋介石率いる国民党軍は華南の中心都市である上海を目指します。

 

1927年までには中国の中・南部にいた軍閥を一掃します。

 

一方、国共合作によって国民党と手を組んだ共産党は労働者の力を使って独自に上海の解放に成功しました。

 

②上海クーデター

蒋介石を語るうえで欠かせない要素の一つが、彼は大の共産党嫌いだったということです。

 

その彼からすれば指導者「孫文」が行なったとはいえ、国共合作は耐えられないものでした。

 

ましてや、上海を解放した共産党の力は頼もしいというより恐ろしいと感じました。

 

上海の経済を支配する浙江財閥は、労働者の矛先が自分たちに及ぶのではないかと恐れ、蒋介石と手を組みます。

 

そして、蒋介石は共産党員や労働者を殺害。これにより国民党と共産党は再び対立関係に入ります(国共分裂)。

 

③南京国民政府の樹立と北伐の続行

共産党を一掃した蒋介石は自らトップとなり南京国民政府を樹立しました。

 

体制を整えた蒋介石は北京を目指して北伐を再開します。

 

④山東出兵

日本の田中義一内閣は国民政府の北伐が華北や満州に及ぶことを恐れていました。

 

日本は居留民の保護を名目として山東省に軍を派遣しました。

 

日本軍は北伐中の国民政府軍と戦い打ち破りました(済南事件)が排日運動を強めてしまうことになりました。

 

 

⑤張作霖の大敗

(張作霖爆殺現場の状況 出典:Wikipedia)

 

 

満州軍閥の張作霖は国民政府の北伐軍と戦い、大敗してしまいました。

 

負けた張作霖は満州で立て直しを図りますが、軍事力を失った張作霖は日本にも見捨てられます。

 

1928年に満州にいた関東軍の策略で暗殺されてしまいました(張作霖爆殺事件or満州某重大事件)。

 

 

勝利した国民政府軍は北京を占領。日本ではこの事件の報告をめぐり田中義一が昭和天皇の叱責を受けて内閣を総辞職しました。

 

⑥張学良の国民政府参加

父を日本に殺された張学良は日本が思ってもいない行動をとります。

 

自ら蒋介石に降り、満州に国民政府の旗を掲げたのです。

 

これで、1927年に始まった国民政府による北伐は完成しました。

 

北伐のその後

(1926年 権力を掌握した蒋介石)

①蒋介石による北伐の完成

張学良が国民政府に参加したことで、国民政府が中国全土を統一しました。

 

しかし、上海の外国人居留地(租界)や欧米の植民地支配、満州での日本勢力など完全統一には程遠い状態でした。

 

にもかかわらず、蒋介石は共産党との戦いにこだわり続けました。

 

②共産党の動き

上海クーデタで国民政府と対立することになった共産党は、共産党嫌いの蒋介石が執拗に追いかけてきたため各地を転々とします。

 

逃げに逃げた共産党軍は「長征」1万2500キロという途方もない移動を余儀なくされました。

 

その過程で毛沢東が共産党の主導権を握り、周恩来が補佐する体制が出来上がりました。

 

こうして国民党と共産党は第二次国共合作が成立するまで戦い続けました。

 

③満州事変

張学良が国民政府に参加したことで満州の日本の権益が危うくなると軍、特に関東軍は考えます。

 

関東軍は先手を打って柳条湖事件を起こし、その勢いで満州全土を制圧します。

 

 

満州を追い出された張学良は国民政府の一員として共産党と戦い続けます。

 

一方、関東軍は清の宣統帝だった溥儀を執政とする満州国をつくりました(満州国建国までの流れを満州事変と呼ぶ)。

 

 

④張学良の動き

張学良は満州を取り戻すために蒋介石に日本と戦ってほしかったのですが、共産党を倒すことを優先する蒋介石は耳を貸しませんでした。

 

共産党軍と戦う張学良のもとに蒋介石が訪れた時に、張学良は蒋介石を監禁して共産党と手を組んでともに日本と戦うことを要求します。

 

蒋介石はしぶしぶそれに応じました(西安事件)。

 

これにより、再び国民政府と共産党が手を組むことになりました(第二次国共合作)。

 

さらに、日本に対抗する抗日民族統一戦線を形成します。

 

まとめ

 北伐とは、国民党軍(国民政府軍)が行った中国統一の軍事行動。

 北伐の中で、蒋介石は共産党と手を切る。

 北伐は日本の権益を損なうと考えた田中義一内閣は山東出兵をおこなって邪魔した。

 北伐に敗れた張作霖は日本によって殺された(張作霖爆殺事件)。

 張学良が国民政府に参加したことで北伐は完了した。

 北伐後、日本は満州の権益を確保するため満州事変を起こした。

 共産党との戦いにこだわる蒋介石は西安事件後、ようやく抗日民族統一戦線に参加。