【戊申詔書とは】わかりやすく解説!!背景・第二次桂内閣時の地方改良運動などについて

 

日露戦争が終結した後、1908年に明治天皇により発布されたのが戊申詔書(ぼしんしょうしょ)です。

 

この詔書が作られた狙いは何だったのか。また詔書はどんな影響を与えたのか。今回は『戊申詔書』についてわかりやすく解説します。

 

戊申詔書とは

(明治天皇 出典:Wikipedia

 

 

戊申詔書は、1908年10月14日に明治天皇によって発布された詔書のことです。

 

時の内閣は、第二次桂内閣。内務大臣の平田東助が、詔書案を作成して閣議に提出しました。

 

当初、外務大臣である小村寿太郎と海軍大事の斎藤実からは反対が出ましたが、平田が不安定な社会情勢を鎮めるためには、天皇の命令という形の詔書が必要だと主張し、発布されました。

 

戊申詔書は、大きく三つの内容から構成されています。主に、西欧諸国と緊密な関係を築いて、国の発展をするには国民が一致する必要があると説いています。

 

戊申詔書が作られた背景

 

国民一致で国の発展を図るために発布された戊申詔書ですが、どうしてこのような詔書を作らなければいけなかったのでしょうか。

 

①日露戦争の勃発

戊申詔書が作られた背景には、日露戦争の後の社会情勢が不安定になったことがあげられます。

 

日露戦争は1904年から1905年まで、日本とロシアの間で行われた戦争です。朝鮮半島と満州の権益を巡っての戦争でした。この戦争で、日本は勝利し、国際的に西欧列国の仲間入りを果たします。

 

朝鮮半島の権益を認められたり、領土も拡張することになりましたが、戦後に結ばれた講和条約で賠償金の支払い要求を一切認められませんでした。そのため、戦争で増税された国民の貧困問題が深刻化しました。

 

②講和条約反対の動き‐日比谷焼き討ち事件

日露戦争で、日本は莫大な戦費と犠牲者を出しました。しかし、戦後に結ばれたポーツマス条約では、ロシア側の賠償金支払いの義務は全くありませんでした。これに不満を持った国民たちが、講和条約に反対する集会を開きました。

 

 

1905年9月3日には、大阪公会堂で集会が開かれ、「講和条約を破棄して、ロシアとの戦争を継続せよ」という過激なものでした。さらに、5日には東京の日比谷公会堂でも集会が行なわれました。

 

しかし、警視庁は禁止命令を出し、警察館350人を配置して公園入口を封鎖しました。怒った市民が新聞社や交番、警察署を襲撃して破壊し、13ヶ所から火の手が上がりました。これが、日比谷焼き討ち事件です。

 

(焼き打ちに遭った施設 出典:Wikipedia

 

③桂園時代

日比谷焼き討ち事件の後、横浜と神戸でも同様の暴動事件が発生しました。

 

東京は無政府状態となり、戒厳令がしかれることになりました。こうして、当時の桂内閣は総辞職することになります。その後を引き継いだのは、西園寺公望が率いる内閣でした。

 

首相となった西園寺公望は、戒厳令を出した関係者の処分をすることなく、事件の幕引きを図りました。

 

1901年から10年間の内閣は、軍との関係が強かった桂太郎とリベラル派であった西園寺公望が交互に首相を務める桂園(けいえん)時代と呼ばれています。

 

 

戊申詔書の内容

 

 

 

こうした国民の不満や暴動を鎮めるために、天皇の詔書が必要との判断が下され、戊申詔書は作られました。

 

その内容は、どのようなものだったのでしょうか。

 

①第一段落「列国と友好関係を」

内容は、大まかに三つに分けることができます。第一段落は以下のようなことを言っています。

 

今日の時代は、世界の列国が協同し助け合って、幸福と利益を受けている。私(天皇)は、ますます国際的友好関係を緊密にして、列国と共にその恩恵を受けようと思う。

 

つまり、西欧列国と肩を並べるようになり、ますます列国との関係を深めていくことで、国の発展を図っていくという天皇の意思を表現しています。

 

第二段落「国民が一つになって」

二段落目は、以下のように書かれています。

 

列国と共に国の発展をしようとすれば、国内における国力発展増進に基礎を置かなければならない。そのためには、国民が一つになって、勤労倹約をして、お互いをいさめあって励ましあいながら活動しなければならない。

 

列国と一緒に発展、進歩するには、国内における国民の統一が必要なことを説いています。また、国民の勤労倹約、お互いを奨励しあっていくことも書かれています。

 

③第三段落「天皇の遺訓を守る」

三段落は以下のようになります。

 

わが国の神聖な遺訓は、光り輝くものであり、国民がその遺訓を誠心誠意守っていくならば、国運発展はこの根本にあるだろう。

 

神聖な遺訓とは、明治維新の際に布告された「五箇条の御誓文」を指しています。「五箇条の御誓文」は、明治政府の基本方針として布告されました。国民が、この御誓文を基本に一つになって国の発展のために、働くことを説いています。

 

 

戊申詔書の影響

 

 

戊申詔書は、日露戦争後の社会混乱をいさめ、国が発展するための道徳的規準を国民に示したものでした。その影響は、どのようなものだったのでしょうか。

 

①地方改良運動のはじまり

地方改良運動は、1909年7月に始まりました。戊申詔書が発布され、日露戦争で疲弊した地方社会や市町村の改良や再建を目指す国の運動です。

 

地方改良の事業は日露戦争が終わってすぐに始まっていましたが、戊申詔書が出た後に内務省を中心として事業を徹底させるために、地方で講習会を開催しました。それは、1911年まで続きます。

 

運動の政策として、まず町村財政を立て直すために納税組合の設置、農事改良、青年教育、普通教育などの講義が行われました。

 

②地方改良運動による国民の精神統一

 

 

地方改良運動により、農村自治が広まっていきますが、その基本には三つの教えがありました。一つ目は奉公の精神、二つ目は協同の精神、三つ目は自助の精神です。

 

それぞれの目的は・・・

奉公の精神・・・国民に私利私欲を制して国益に奉公する責任意識を強化するため

協同の精神・・・江戸時代の五人組の伝統を維持し強化して、村全体を一つにしていくため

自助の精神・・・勤労をして他人に頼らず、自営していく精神を育てるため

 

こうした精神を教化していく中で、地方を天皇中心国家へと統一することに貢献しました。

 

③教育勅語の発令

教育勅語は、1890年に発布された明治天皇の勅語です。こちらは、明治政府の教育に関する基本方針を示すものとして作られました。

 

国民道徳の基本と教育の根本理念を示すためのもので、明治政府の国家統一に大いに貢献したことは、戊申詔書と同じです。

 

国を天皇を中心とした一つの家族のように考え、君主を尊び忠実に従うということで、天皇制の精神的、道徳的な柱となりました。

 

戊申詔書も同じような役割をしたため、第二次世界大戦が終了して1948年には、教育勅語と共に廃止されました。

 

まとめ

・戊申詔書とは、明治天皇によって1908年に発布された詔書である。

・発布された背景には、日露戦争による国民の貧困や政府への不満・暴動があった。

・詔書は、国民に列国と肩を並べて発展するには、国内の統一と勤労が必要であると説いている。

・戊申詔書をきっかけに、第二次桂内閣は地方改良運動を徹底していく。

・地方改良運動により、天皇を中心とした国家造りが地方から強化されていく。